玄関の扉を明けると、客の物らしい女物の靴が揃えられていた。太一は「ただいま」

取り澄ました口調で言うとスクールバッグを静かに置いた。家に客がある時は挨拶に出

るように躾られていた太一は、応接室のドアを軽くノックすると顔を覗かせ、

「いらっしゃい、太一です。ごゆっくり」おざなりの挨拶をした。客は太一を見上げ、

「タイッちゃん、私分かる?タイッちゃんが赤ちゃんの時あなたを抱いたのよ」そう言

われても太一には何と言っていいか見当もつかず、「ああどうも」照れながら言った。

「仲間と約束があるから」太一は逃げるように部屋を出た。ジーパンに履き替え玄関を

下りると「太一、高校生になったのよ」母の声がかすかに聞こえた。太一は歩きながら

どこかで会ったことがのあるような客だと思った。不思議な慕わしさを感じいぶかった。

 期末試験の終わったその日、太一はのんびりと開放感にひたり、仲間とゲームセンター

や喫茶店で小遣いを使い果たして暮れかかったころ家に帰った。客はもういなかった。

「あの人もう帰ったの?ねえ、何かない?腹減っちゃった」そう言って母親の方を見る

と客の手土産らしい箱がテーブルの上にあった。包み紙の形からケーキと分かると、

「そのケーキ食べていい?開けるよ」太一はすかさず包みを開け、チョコレートのかか

った一つをつまみあげるとかぶりついた。「手洗ったの?」横を向きながら母は立ち上

がり「牛乳?紅茶?」と聞いた。明るいいつもの母とは少し違うと太一は思った。母の

後ろ姿から今まで泣いていたような雰囲気を感じ取った。あの客に関係あるにちがいな

い。何を言いに来たのだ。急に不安な物が込み上げ「牛乳いらない。やることがあるか

ら」太一は二階の自分の部屋に駆け上がった。暗くなった部屋の椅子に座り、太一はス

タンドの電気をつけたり消したりしながら考えた。ひょっとしてあの人は自分の本当の

母親だったりして。そう言えばあの時自分を懐かしそうな目つきで見ていたような気も

する。姉とも十歳も年が離れているのも不自然だ。いつか血液型を聞いた時、母は慌て

たように知らないと言った。家には何か秘密があるのかも知れない。考えれば考えるほ

ど不可解なことが思い出された。父さんも違うのだろうか。しかし、父と自分はおかし

い程身体つきが似ている。では、父の不倫の子なのか。部屋に閉じ籠もっていると不安

が際限もなく膨らんできた。看護婦になり、四年程前からさる国立病院で寮生活をして

いう姉を訪ね、それとなく相談してみようとかと太一は思った。

 その夜、父は遅く帰ってきた。キッチンでビールを飲みながら母と話している声が聞

こえた。昼間の客のことを話している様子だった。父の怒ったような声が聞こえた。

「十五年もほっといて勝手もいいところだ

「私も自分の子だと思って育ててきたんですよ。あの子だってそう思ってくれてるわ」

「あの子には話したのか?」

「話す気なんかありませよ」聞いた太一の背に闇が覆いかかり過去が瓦礫のように崩れ

るのを感じた。どうして良いか分からなかった。放心したようにキッチンに入っていく

と、驚いた顔の両親に言った。

「なぜ今まで黙ってたんだよ」声は震えていた。父母は黙ってただ見つめ合っていた。

「何時話そうかと思っていたんだがな」やがて父からその言葉を聞くと、わけもなく涙

があふれ出た。自分を見つめる父母の目が冷たい他人に見えだした頃父親が言った。

「実はお姉ちゃんはな、今日来た母さんの友達から預かったんだ。」太一の身体の中で

別の何かが崩れるような気がした。不思議に両親の顔が間時かにに見えた。姉が遠くに

霞むように感じられた。頭が混乱し、やがて姉のやさしさが悲しく思い出だされて来た。

いっそ僕が貰い子のほうが良かったのに、太一の心にほっとしながらもそんな思いが込

み上げてきた。

   
                    

 

                 

夕暮れの客

高安義郎