預金通帳

高安義郎


  この春八十歳になる父は、母が他界してから気が弱くなり、伏せることが多くなった。

 父は現役時代国税庁の役人だったが、代議士が収賄(しゅうわい)で立件された事件の

 折、父も関与したのではというあらぬ噂がたち、出世コースから弾き出された人だった。

 それでも三人の息子を育て上げ、息子達はそれぞれ伴侶を得て他県に暮らしている。末
 
 っ子の浩三だけが父の家の近くに住み、頑固な父は古い家から離れようとしない。

  その父がある日転んで足の骨を折り入院することになった。病院にいれば三度の食事

 を出してもら貰え、面会室では同じように退屈な老人達と世間話もできた。

  入院してひと月が過ぎたある日、私は出張のついでに父を見舞うと、偶然取引先との

 打ち合せに出て来ていた次男の喜義(きよし)と顔を合わせた。

 「喜義、仙台からじゃ大変だな」久し振りの弟に私は声をかけた。

 「信夫(のぶお)兄さんこそ山口からじゃ。今日は親父の所に泊まるんだろ」

 「浩三(こうぞう)が来れば久しぶりに揃うな。浩三は役場勤めだから夜にでも呼ぶか」

 不思議なことに我々兄弟はこれまで喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。

 二時間ほど病院で父の無聊(ぶりょう)をなぐさ慰めた後、

 「それじゃ三人で角の店で飲むから。また明日出かける前に寄るよ」そう言って病室を出

 ようとすると、父は一冊の預金通帳を手にしながら言った。

 「信夫、一億円が」そう言いかけた時看護師が入ってきた。父は通帳をしまい込んだ。

 「そんな冗談が言えるようなら、大丈夫だな」私たちは笑いながら病室を出た。

 その日の夜浩三を呼び出し、久し振りに実家に近い居酒屋で酒を酌み交わした。

 一時間ほど近況を話し、ふと話題が途切れた時、父の言った言葉を喜義が話題にした。

 「親父、たしかあの時一億円て言いかけたよな。本当に一億円、持ってたりして」

 「たかが国家公務員で役職にもついてなかったから天下りもないし、退職金と年金じゃ

 一億はないだろう」

 そう言って私はまともに取り合わなかった。

 「そうだよな。でも何で一億なんて言ったんだ」すると末っ子の浩三が聞きとがめ、

 「なに?親父一億あるなんて言ってたのかい」

 「冗談に決まってるだろ」私が言うと、

 「兄貴よ。親父は昔、収賄事件に絡んでるとか言われたことがあったよな。あの時

 は無罪放免だったけど案外本当は絡んでたりして、一億の金をもらってたなんてこ

 とはないかなあ」浩三の言葉に三人は顔を寄せ合った。

 「まさか。石部キンキチのあだ渾な名まである親爺にそんな金あるわけないだろ」

 「でもさあ。一億なんて口に出すということは、ひょっとしてってこともあるん

 じゃ」

 「そうだよなあ」三人の想像は次第にふくらんだ。そして、親父が役職もなく我慢

 できたのも隠し金があったからではないかと、いよいよ想像をたくま逞しくした。

 「一億円あったら、どう分ける」喜義が言った。

 「分け方はいろいろある。平等に分配するか、長男次男三男の順にするか」

 「そんなの可笑しいよ」

 「そうだ平等にするべきだ」

 「平等もおかしいよ。お袋が病気の時俺は女房と五年もあの家で世話したんだ」

 浩三が不服そうに言った。

 「そりゃしかたないさ。俺たちは遠くに住んでるんだから、当たり前だろ」

 「兄さん達は大学入るのに二浪したじゃないか。それだけ金がかかってるってことさ」

 喧嘩などをしたことがない兄弟だが、酒が入った勢いもあり険悪なムードが漂い始めた。

 「いい加減にしろよ浩三」私は浩三の口を制した。すると、

 「兄貴風吹かすんじゃないよ」浩三は声を荒げた。そこへ浩三の妻がやって来た。

 「やっぱりここだ。お父さんが角のお店って言うから来てみたの。私今お父さんの病院

 へ行ってきたところだけど、お父さんね、『俺が死んでも、家には喧嘩の種になるよう

 な一億なんて財産はないが、葬式代くらいはあるから』って、三百万円ほどあるこの通

 帳渡されたの。お父さんずいぶん弱気になっちゃって」そう言ってビールを注文した。

 「俺、親父の子じゃねえみたいだな」浩三は恥ずかしそうにぽつりと言った。