山桜


   家族に、特に妻に迷惑を掛けながら、我が儘いっぱいに生きてきた宗一は八十

半ばで臨終の床にあった。自分はもういつ死んでも悔いはない。家族への謝罪の気持ち

がそんな安らかな思いにさせていた。宗一はベッドの傍らに座る妻に言った。

「後生は、うちの庭に咲いている牡丹の花になりたいものだ」すると妻は、

「白ですか赤ですか?」素っ気なく言った。

「白がいい。赤は他の花の生気を吸い取るようで傲慢(ごうまん)すぎる」

「そうですか。あなたみたいですね。でも牡丹の命は短いわ。咲いたと思うとあっと

言う間に崩れますから」それを聞いて宗一はしばらく黙っていた。
 
  少しうとうとしてから目を覚まし、

「俺はやはり菜の花のような静かな花に生まれ変わりたい」と言った。

「そうですか。でも沢山咲いていてどれがあなたなのか見分けがつかないですね。もう

あなたを捜して歩くのは疲れましたよ」妻は気のない口ぶりで言った。

「五十年、俺を探がしたからなあ」

そう言って宗一はまたうとうとした。しばらくして目を覚まし、

「俺は今、お前が大根の花になった夢を見た。だがお前の花かすぐに分かったぞ」

「そうですか。いままで私のことなんか気にかけたこともないのにね」

「揚羽(あげは)が飛んできて教えてくれたんだ」

すると妻はあの世などで探してくれなくとも、と言いかけ宗一を見つめた。

「二人とも花だと困るなあ。俺が蝶になろう」

「あなたが蝶なら、私は鳥になって食べちゃいましょうかね」

「お前に食べられれば一つになれる。いいかもしれない」そう言ってすぐに、

「だめだ、糞になって捨てられちまう」首を振るとまたうとうと寝てしまった。

 宗一が若かった頃、女遍歴でさんざん苦労させられた妻は、宗一の間の抜けた輪廻話

が馬鹿馬鹿しく思えた。

宗一が目を覚ますと妻もベッドに顔を埋めるように寝ていた。

「あら私も寝てしまったのね。あなたが山桜になった夢を見たわ」妻が言った。

「山桜か。それはいい。山の奥で誰にも煩(わずら)わされず花を咲かせる。悪くない。

 それで お前は何になったんだ」

「私は山桜のあなたの葉を食べる毛虫でした」

「そうか。お前が毛虫ならどんなに葉を食べても惜しくはない」

「それじゃ山桜に決めますか」

「決めなきゃ死ねないかねえ」

「死ねないことはないでしょうけど、決めておいた方が死に甲斐があるでしょう」

「死に甲斐なんて物があるのかねえ」

「それに後生の世界であなたを探すのに楽でしょう」

「あの世でも私のそばに来てくれるのかい」

「仕方ないですよ。放っておいたら何もできない人でしょ。花だって咲き忘れるでしょ」

  「この世では何も楽しい思いをさせてやれなかったから、あの世では楽しませてやるよ。

罪滅びしって奴だ」

「そうですね。毛虫ですと、やがて蝶になって楽しく飛び歩きますよ。飛び飽きたらま

たあなたの木に止まって、沢山卵を産みますよ」

「ちょっと待て。その卵は誰の子供だ。俺の子じゃないだろう」

「そりゃ仕方ないですよ。桜と蝶では結婚できませんからね」

「それじゃだめだ。お前が桜になれ。俺が蝶になる」

「卵を産む蝶は雌。あなたは雄の蝶ですよ」

「そうだ沢山雌を引きつれてくるよ」

「あら。この世と変わりませんね」

「死ぬと言う今になって昔のことを蒸し返すな。それにしてもお前は俺と結婚して後悔

しているだろうな。楽しい思い出なんか何一つなかったろう」

「そう言われれば、楽しかったこと、思い当たりませんねえ」

「そうだろう。だからあの世では、お前はわしから離れて暮らすといいよ」

 そんな話をした翌日、宗一は眠るように息を引き取った。

 葬儀が済むと妻は庭の隅に二本の山桜の苗を植え、宗一の遺骨の灰を一握りまいた。

そして深いため息をひとつついて呟いた。

「あなたと一緒になって、楽しかった思い出、ありますよ。病院の枕元で、二人の後生

の話をしましたね。あの時が一番楽しいひとときでしたよ。だから待っていてください

ね。二人で山桜になりましょう」