一九六×年、ヴィーナス象がルーブル美術館から来るというニュースが報じられると、
日本中はその話題で持ちきりになった。海外旅行が遠いものであったその頃、このニュ
ースは西洋に触れる絶好の機会と受け取られたのだろう。公開初日から、たかだか数分
目にすら為に、観客は崇高な文化の洗礼を待つ思いで並んだ。
美術館の職員となってまだ日の浅かった浜島は、なぜ人はこんな石の像に興奮すのか
理解できなかった。
「立ち止まらないでください」
浜島はメガホンを片手に何度も叫んだ。圧死されそうな人混みの真ん中に据えられた高
い台の上にヴィーナスは立っていた。人に押されながらやっと首を上げ、ちらちらと目
を泳がせて、いつの間にか外に出るのだ。これでは観賞した気にはなれないだろうが、
出口に出た人達は感嘆ともため息ともつかない声を発した。
「思っていた以上に素敵だったねえ」
「大理石ですって。でも人の肌を感じたよ」
「さすが美の女神。美の固まりといった感じだ。あれを見たら他の何も見られないね」
そんな声が聞こえてくるのだ。口々に褒めそやす言葉を聞きながら浜島は首をひねった。
本当に彼等は美しさを感じているのだろうか。ただヴィーナスの名前に酔っているだけ
ではないのか。いぶかしく思った。実は浜島にはこの像が美しいとは思えなかったので
ある。というより、美しいということがどういうことか理解できないでいたのだ。美術
の専門家ならばともかく、一般人が何故これほどまでに熱狂するのだろう。ことによる
と自分だけ美しさが感じられない障害者なのではないだろうか。そんな思いが脳裏を駆
け巡った。
三日目が閉館した日である。宿直に当たっていた浜島は展示室を確認して回りながら、
誰もいない暗い会場をのぞき込んだ。非常灯の照らす明かりがヴィーナスを浮き上がらせ、
不気味な影を落としていた。
「これのどこが美しいのだろう」
呟きながら浜島は像に近づき、じっくり見つめれば、あるいは美というものが理解でき
るのかも知れない。浜島は像の周囲の鉄柵を乗り越えヴィーナスの足に触れた。ひやり
と大理石の冷たさを感じた。
「人間の足と同じ形だ」
浜島は呟いた。ポケットからハンカチを取り出すと像のつま先にかけた。その瞬間浜島
はどきりとした。像が動いたような錯覚に捕らわれたのだ。思わずハンカチを取り去る
とさっきまで大地を踏みしめていた足先がなかったのだ。
「そうか」浜島は再びハンカチを掛けて呟いた。
「分かったぞ。実際にはないから、完璧な美しいものを想像するんだ。腕もそうだ。腕
がないから神秘的な動作を感じるんだ」
浜島は一人納得した。
「自分は今まで、絶対的な美というものが存在すると思い込んでいたから感じられなか
ったが、美とは想像によって完成するものなんだ」
浜島は一人納得しハンカチを取り除いた。確かにつま先は欠けている。
「そうだよ。俺、確かにほっそりとしてそれでいた逞しそうな足が見えた」
呟いたあとで、まさか俺が欠いてしまったのではないだろうな。そう思い辺りを見回した
がそれらしい物は落ちてはいない。
「やっぱりつま先が見えていたのは俺の想像力のせいなのだ。つまり美は想像力によっ
て完成するんだ」
そんな哲学めいた結論を口走り、ならばいっそ首がなければ更に美しさは倍増するのでは
ないか。そう思うと浜島は嬉々として像によじ登り始めた。その時だった。
「何してる」
大声がしたかと思うと警備員が駆け寄り浜島はねじふせられた。床に顔を押しつけられ
ながら、
「首が無い方がもっと美しいはずだ」と叫んだ。
「馬鹿なことを言うな。みんなはこの顔を見に来るんだよ」
警備員はそう言って連行していった。
あれから四十年が経とうとしている。美術館を追い出された浜島は現在さる清掃会社
で働いている。
狭いアパートにはどこかの河原で拾ってきた石が、所狭しと並べられており、石には