

ある夜気がついてみると、俺は違う部屋に寝ていたのだ。部屋の間取りや
家具の位置には見覚えがあるようだが、自分は誰と暮らしているのか、何を
職業にしているのかさえ思い出せなかった。第一自分の名前も分からないの
だ。ただ誰かに追われているような恐怖感と寂しさだけがあった。時計を見
ると午後九時だ。そのまま布団の上に座り、できるだけ何かを思い出そうと
したが頭の中をただ木枯らしが吹き抜けているだけだった。電話を見つけ近
くにあった電話帳から何か手がかりを捜そうとしたが、何も思い当たらなか
った。朝方しらじらと夜が明け始めた頃、無性に眠くなり俺は布団に潜り込
んだ。
目覚めると翌日の九時だった。また部屋の中を物色して回った。すると自分
の眠っている間に、他の誰かが生活している形跡が見つかった。台所の流し
には食器が散乱しており、脱衣所には脱ぎ捨てた下着が落ちていた。部屋の
中と言わず外と言わず、俺は探偵になった気になり探検したが、自分が誰な
のかはようとして分からない。本箱や机の引出しを開いたが日記帳らしき物
も無い。そうこうしている間にまた窓の外が明るみ始め、またもや強烈な睡
魔に襲われたのだった。
そんな夜を何日か過ごし、部屋の中が散らかり放題に散乱していたのに気
付いた。もともと奇麗好きな性格だったのだろうか。俺は掃除機を見つけ出
し部屋を掃除し、複雑そうなボタンを何とか操作して洗濯をした。体を動か
したせいか空腹を覚えた。だが冷蔵庫に入っているものはいつ誰が買ったも
のか不安で手が出せない。食卓の上にあったビニール袋から近くにコンビニ
かスーパーがあるらしいのは分かった、やたらに歩いては身に危険があるか
も知れない。それに金も無い。茶箪笥の奥を物色すると二千円ばかり出てき
た。空き巣狙いのようで気が咎めた。
一週間たった頃である。俺は勇気を振り絞り夜の町に出てみることにした
洋服ダンスから勝手に服を借り、帽子を深くかぶって変装し、車庫の隅で埃
をかぶっていた自転車に乗った。持ち金は二千円だった。コンビニで弁当を
買ったものの、昨日の夜の空腹感はほとんどなかった。不思議には思ったが
それよりも通る人の全てが敵のように思え、顔を隠すほうが忙しかった。俺
はバイパス沿いのファミリーレストランで皿洗いのアルバイトをすることに
した。夜の十一時から朝方四時までの約束で、一晩で六千円近くになる。他
人の金は使いたくなかったし、自分の服も買いたかったのだ。
始めての給料を貰うと深夜営業の店から下着やズボンを買った。もう他人
物を使わなくとも良くなった。そんな生活に慣れ始めた頃、俺はどうにか自
分の立場が分かりかけてきたのだ。昼間俺が眠っている間、別の男がやって
来てこの家で生活する。そいつはこの家の持ち主かも知れない。すると自分
は居候ということになる。だが、多少なりとも家事の手伝いをしてやるのだ
から、泊めてもらうくらいお互い様だと思うようにもなった。それに最近は
バイトにも慣れ楽しくなった。
そんなある夜だった。台所に一通の手紙が置いてあった。
「俺は仕事は好きだけど、家事は嫌いです。君が家事をしてくれるので本当
に助かります。僕の物は何でも使ってください。僕はまだ君の姿を一度も見
ていませんが、せめて名前が知りたいです。夜の人へ」
不思議だった。お互いに寝ている姿をまだ見ていないのだ。まさか、同じ人
間が、夜の自分と昼の自分の二人を生きているのだろうか。疑問は山ほどあ
るが、肯定しようと思えば肯定できるし、否定しようと思えば否定も出来る。
自分の知らない所にもう一人自分がいるのは、一見楽しくもあり不気味なも
のだ。とりあえず、
「僕は浦島真二です。」とバイト先で使っている名を書いてテーブルに置いた。

|