部屋に近づくと

呪文にも似た声が聞こえてきました

開け放たれているドアから顔を突き出し

部屋の中を伺いました

ペットに座り壁を見つめ

しきりに何やら唱えている老婆

それは体の萎えて縮んだ

手ばかりが異様に人きい

僕の母の祈りの姿でありました

 

「ミツコ ヨシオ ミツコ ヨシオ」

母は僕と妻の名を繰り返し唱えていたのです

「ほら ヨシオの到着」

幼子をあやすように声をかけました

毋は僕の顔に半ば篤き半ば安堵し

「ああ、これで間に合った」

どんな夢と連結したのでしょう

穏やかな顔に戻って嬉しそうにいいました

 

「僕とミツコを呼んでたの?」

何気なしに聞きました

すると母は

「何もかも忘れちゃいそうだから

 二人だけは忘れないように呼んでたの」‐

それを聞くと僕の喉は熱くなり

何の返事も出来ませんでした

 

ほとんど壊れてしまった脳の片隅で

母は自我崩壊に気付いたのでしょうか

必死に息子と嫁の名を呼び

自分を支えようとしたのでしょう

現実が潮解するような底知れない不安と恐怖が

母の心を容赦なく襲ったのだとおもいます

 

僕は部屋をそっと抜けだし廊下に出ました

突き当たりの非常口近くで窓を開けると

素知らぬ顔の曇天が格子の向こうに垂れていました

灰色の雲の中に僕は父を思い描き

『早く迎えに来てあげて』

思わず曇天に手を合わせ

1そんなことを口走っておりました

                        (平成14年9月24日)


                         
                                      

曇天の祈り