心の壊れてしまった母は語気を荒げて怒ります
家族に邪険にされていると言っては嘆きます
和ませようとする僕の言葉も母の耳には届きませんでした
あるいは僕の人生の定めのなさを
妄想にかこつけて嘆いたのでしょうか
ポケットから落ちてしまった時の淵から
「学校は楽しいかい」いきなり聞くのでした
僕の教員生活を案じたのでしょうか
「もう三十年になります」と答えれば
「私の働ける所はそこにはないか」と言い出すのです
答えようの無いまま僕は目を閉じておりました
また一つ不安定な心が転がったのでしょうか
母は小声で子守歌を歌い出しました
眠った子供を演じて僕は聞いていました
すると母は涙ながらに呟く(つぶや)くのです
「可愛そうな子だよこの子は」
それを聞くと僕は本当に悲しくなって
つむった目から涙がにじむのを感じるのでした
時の軸がずれて回り出しました
母はいきなり「私の家に連れてってくださいよ」
寝たふりの僕の袖をつつきます
言葉を聞き分けられない心であっても
乳飲み子の願いであるなら
親子の記憶の果実となって止(とど)まるでしょう
けれど母には総(すべ)ての言葉が時からそれて
忘却の滝に落ちて流れてゆきます
僕は自分に納得できる言葉を探し
あるいは諦観の方程式を試みました
けれどもどんな知恵者の言葉も
今の僕には笹舟ほどの慰めにもなりませんでした
なす術(すべ)の無いまま僕は
つるべ落としの夕陽の空の茜(あかね)の雲を
長い時間に感じながら見つめていました
「何を考えてるんかねこん子は」
母は再び枯れ枝のような心で僕を打ちます
小さな庭に夕日の赤が照らしていました
雑草に覆われて飛び石は寂しいままです
庭を見つめ黙りこくった母の背に
返す言葉も迎える言葉も見つからないまま
僕は庭の赤い時間を見つめていました
(平成13年11月)
