父が病床にあった時のことです

どんな看護も家族にかなうものはない

そう言って父は入院を嫌っていました

これまで描き溜めた油絵を枕元に並べ

裏磐梯の風景を見入っていました

「これは誰にもあげるなよ」

父の言い残した言葉です

現在居間の中央に飾られているその絵です

 

死の一月程前からは起き上がれなくなりました

日一日と衰えてゆく姿を見ました

帰宅後僕は必ず具合を尋ねましたが

「まあまあだねえ」答えはいつも同じです

しかし僕の目には明らかに

昨日よりも濃い死の相を

いやが上にも感じさせられたものでした

 

僕は一日おきに父の髭(ひげ)を剃りました

「お前は床屋になると良かった」

礼の代わりに必ず言う言葉です

アフタークリームを延ばし終わると

何に納得してなのか深くうなづいたものでした

 

病床の中で父は

じっと何かに耐えているように見えました

それを思い出すたびに

僕は父の人生を考えるのです

 

耐えることとは

耐えていることさえも気取られないこと

それを父から教わったように思います

「人生はこれ一回でけっこうですな」

それが父の哲学でした

 

可愛がった孫娘が顔を出した時でした

「この子は誰だ」と聞くのです

居合わせた人達は返事のしようもありませんでした

するといきなり「よし 許す」大声で言いました

許されぬ子だとでも思い違いをしたのでしょう

肺ガンの痛みを押さえるモルヒネで

脳は朦朧(もうろう)としていたのです

けれども人を許す気持ちは薄れてはいませんでした

父の余命が幾ばくもないことを

医者から聞いて僕は知っていましたが

不思議に悲しくはありませんでした

 

亡くなる三日前の事でした

痛みも感じなくなっていたようですが

うわごとに家族が顔をつきあわせた中に目を覚まし

「いい家族だった」

芝居がかったセリフを言った父でした

「それを言うのはひと月早いよ」

僕は冗談で返したつもりだったのですが

何故十年と言えなかったか今尚悔やまれてなりません

父は八年前に身罷(みまか)りました

 

残った母は明るい施設のひと部屋にいて

毎日妻が見舞います

休日は僕も弟も顔を出します

会話はことごとく辻褄(つじつま)は合いません

でも答えは肉声で返ってきます

それなのに僕の心は

何故か深い悲しみに襲われるのです

 

死ぬという現象は

思うほど遠い世界のことではないのではないか

生きていながら心が繋(つな)からないことこそが

遥かに遠い世界を思わせるのかも知れない

母の寝息の聞こえる側に正座しながら

母との距離を僕は見つめているのでした

 

 

            (平成14627

 

近い父遠い母