サラリーマン生活に飽きを感じたが、思い切って脱サラしようと決め

たのは半年前のことであった。

 脱サラをして何をするか。彰は友人にも女房にも相談をしたが、友人は誰

も自分の生活を考えることが精一杯で、親身に相談に乗ってくれる者はいな

かった。女房は、

「また病気が始まった。何でもいいわよ。私が社長でも用務員でも手伝うわ

よ」

鼻から信じていない言い方である。

 ある本に転職先は過去の経歴から探せ、とあったのを思い出し履歴を書き

出してみた。

 生まれた土地の小中学校を出、隣町の高校から駅弁大学に入学し、卒業後

今の会社に勤めて十五年。親の建てた家に住み結婚して子供が一人。その間

両親は他界した。これと言って特筆するべき経歴は何もなかった。

 これでは転職先を見つけるヒントにはならない。

 ふと彰は部屋の隅の押入から古本が覗いているのに気づいた。何とはなし

に手に取るとそれは中学時代に読みふけった探偵小説であった。今で言うサ

スペンス物である。 急に中学時代が思い出された。

担任の古館先生はよく『葉隠れの精神』を語る野武士のような先生であった。

その先生は家の都合で、彰が中学三年の夏に郷里の山形に帰ったが、今頃ど

うしているのだろう。探して会ってみたい。

そんなことを考えているうちに彰は、いっそ探偵社を開いてはどうか、そん

な考えがふと頭をよぎったのだ。

 何の脈絡もないほとんど衝動的な発想だが、最近は人が人を信じられない

時代になったと言われる。猜疑心は人の心を暗くする。疑いを早く払拭し楽

しい日々が送れるようにしてやるのは、まさに時代に合った人助けの仕事で

はないか。

 思い立った彰は会社に辞表を出し、駅の裏に出ていた貸店舗を一部屋借り

事務所にした。

 ところが何でも手伝うと言ったはずの女房は、まさか本当に会社を辞める

とは思わなかった。こんな非常識な人とは暮らせない。と、子供を連れ実家

に帰ってしまったのだ。

女は何故ああも簡単に約束を破るのか彰には信じられなかった。

 それはともかく事務所は『葉隠れ探偵社』と名付けた。

果たして開業初日であった。

新聞の折り込みやポスターでの宣伝も虚しく、その日は元会社の同僚が冷や

かしに寄った以外、依頼主は来なかった。

  二日目も仕事はなかった。

そして三日目であった。電話が鳴り、

「なる人は今どこに居るか捜索してくれ」

というのである。

 四十年前に住んでいたという町を尋ね、知人を捜し、ようやく予備校の教

師らしいことを探り当て予備校に赴いた。

「その方なら二十年ほど前に本校を辞めましたけど」

受付の中年の女性が言った。

「その方の顔写真はありませんか」

聞くと、

「パンフレットに講師の写真も載せますが、昔の方ですからねえ」

事務官は面倒そうにダンボールに顔をつっこんだ。

やがて得意げに一枚のパンフレットを広げ、

「載ってますよ」

 写真の中央にいる人物を指さした。

その顔を見て彰は愕然とした。それは自分の顔であったのだ。

彰は何がなんだか分からなくなり、飛んで家に帰ると女房に、

「古館という人を知っているか」と聞いた。

「馬鹿ねえ。自分のことじゃない」

そう言って女房はふっと消えてしまった。彰には予備校の講師をしていた記

憶はない。自分は今日までずっと自分であったはずだ。

 記憶のない講師時代は自分だと言うべきではないのではないか。

記憶が個を確立するのだから記憶のない講師の自分は存在しないことになる。

いや、かつては確かにここにいた証拠の写真がある。それが自分ならば今の、

自分はどんな存在というべきか。

 禅問答のような疑問に頭がおかしくなり、沈む太陽を見ながら頭を抱え、

「ワア」と大声を出した。

 自分の大声に驚き彰は目が覚めた。誰もいない部屋のソファーに座り夢を見

ていたのだった。

西陽が頬を照らしていた。電話が鳴った。

「まじめにやれるなら帰ってあげる」

女房からだった。

三日間で掛かってきた電話はこれが始めてである。

先の思いやられる出発であった。


                            


               
              
探偵社の誕生

高安義郎