



村は九十九里浜に程近い穀倉地帯の中にあり、農家だった祐一の家はその村
のほぼ中央にあった。祐一は家中の者が働く姿を見て育ったが、野良仕事だけ
に追われる父母がどうしても好きにはなれなかった。父母の生き方は人生に隷
従しているだけに思われた。母屋の裏に広がる雑木林の不気味な暗さも祐一は
嫌った。その暗さこそ、地を這(は)って生きる父母の寂しい生の象徴に思わ
れたのだ。
そんな中で祐一を喜ばせる唯一の光景は、時折遥か頭上を優雅に飛ぶ一羽の
鷹の姿だった。祐一にとっての人生はこの鷹のように孤高を保ち、常に高みを
思考することだった。その高みに自分自身を近づけようとする作業こそ人生の
価値そのものだと考えた。
実際祐一は子供の頃から、遥か上空を旋回する鷹(たか)の姿をよく眺めた。
空は鷹のためにあり、鷹は空の高さを測っているかに思われた。祐一の目に映る
鷹は、他人の目や口を気にしながら小心の中で生きる村人の因習を一蹴し、孤高
を固持する物の象徴として映ったのだ。また雄大な円を描き、退屈な平野を一瞥
(いちべつ)しながら太平洋へと滑空してゆく鷹の勇姿に神の掲示を感じたりもした。
そんな気持からだろう、祐一は小学校の頃「鷹になりたい」と題して作文を
綴(つづ)った。広い世界を見下ろし、人々が羨望の目で見上げる中を飛行す
る自分を夢見たのだ。ある時は実際に空を飛んでみたい衝動にかられ、屋根か
ら飛びおりたこともある。拾った鷹の羽根を胸に突き刺したことさえあった。
中学生の頃などは、この鷹を自分の手に捕らえてみようと考えた。鷹に触れ
ることで雄姿が伝わるように思われたのだ。だがどんな罠も一羽の小雀さえ近
づけずに終った。
高校生の頃である。この鷹を殺そうと考え父の猟銃を持ち出したのだ。猟銃
は、碧空に舞う鷹を殺すに相応しい重量感と輝きがあった。鷹を撃ち落とすこ
とは、自分がこれに取って代わる為の儀式のように思われたのだ。納屋の屋根
にのぼり、慣れない銃を小脇に抱え碧空に銃口を向けた。鷹はどこにもいなか
った。鷹の命を左右できると思った時、祐一はなぜかいい知れない満足感にひ
たった。空の蒼さに視力が馴染もうとした時だった。鷹は遥か上空に現れた。
思わず狙いを定め引き金をを引いた。鷹は己の運命を知りながら敢えて祐一を
挑発するかのように頭上に近づき、しかも真上に停止して見えた。一陣の風が
吹いた。「お前には撃てない」誰かが呟(つぶや)いたように感じた。引金を
引いた。動かない。操作を誤っているのだろうか。祐一は幾度も照準を合わせ
動かない引き金を引いた。やがて、敗北感が打ち寄せ、汗と涙と埃(ほこり)
にまみれながらせかされるように屋根を下りた。母屋に取って返すと中学生の
頃悪戯をおした父の空気銃を持ち出した。鉛玉を籠めると躊躇(ためら)うこ
となく空に向けて引き金を引いた。気高い鷹の命を奪うに相応しい轟音もなく、
空気銃はため息のように弾を吐いた。鷹の高さに空気銃の弾丸の届くわけもな
いことを知りながら、裕一は何発も撃ち続けた。やがて鷹は反転し太平洋の方
角に消え去った。空しさだけがあたりに散乱した。祐一は所在なく目の前に立
つ椿の古木に銃を向け引き金を引いた。
その瞬間。左腕に熱い物を感じた。やがてそれは激痛となって体を振るわせ
た。椿の幹に眺ね返った弾丸が腕の肉に突き刺さったのだ。恐怖心にさいなま
れ意識が霞んでいった。少年期の思い出はこの時の霞む風景に触合しながら脳
裏深くに留まっている。
父親の暮らす村を去り、鷹の精神を胸に秘めて上京し、それからすでに三十
年の歳月が過ぎた。気づいてみれぱ中堅の商社に身を置き、わがままな妻子に
振り回されているだけの日々の中にいた。子供たちに腕の古傷の訳を問われた
時、少年の頃鷹になることを夢見たなごりだとはなぜか言えなかった。傷に触
われぱその皮膚に感触はなく、奥にかすかな疼(うず)きを感じるぱかりだった。
