真一は深い寝息をたてている母の枕元からグラスを取った。震える手で

蝋燭に火をともすと水をグラスに注いだ。寂しい水音が虫の鳴きしきる夜

の中に流れ出た。

ふと初めて水道の引かれた日のことが蘇った。台所に水道が引かれたのは

真一が小学校五年生の夏だった。井戸水を運ぶ仕事から解放されたとが真

一には何より嬉しかった。思えばその日の夜のことである。母親が急に妙

なことを言い出したのだ。「オラは蓮池のタニシだで」真一にはそう聞こ

えた。突然のことに、初めはギョッとしたものの急におかしさが込み上げ

「オットウ、オッカアはタニシだと」大笑いしながら言った。それを聞き

つけた父親は体中のの血を逆流させたかのような形相で妻の頬を平手打ち

した。何事が起こったのか訳が分からず真一は立ちつくした。「寝ぼけち

まったかね」我に返ったように母が言った。普段はおとなしい父が何故あ

れほど狼狽し母をぶったか。父が発狂したのかと疑った。だが真実は逆で

その出来事こそ母親が正気をなくす前兆だった。

 真一が六年生になった春、母親は部屋の隅にうずくまったまま動かなく

なった。やがて意味の分からない言葉を呟き、訳もなく泣き、あるいは空

笑いをした。

 「心配いらんちゃ。すぐようなるだで」父親の言葉に真一はどうにか勇

気づけられはしたものの、母親の言葉が狂人のそれであることを真一は子

供ながらに察していた。

 父と母との出会いは、共に二十歳になった年の夏祭りだった。その数年

後二人は結婚の約束をした。しかし母の母親が狂人で焼身自殺をしたとい

う噂があり、父の両親はこの結婚に断固反対だった。母の父親も反対した。

しかし好きになってしまった二人は諦められず親からは絶縁される形で結

婚したのだ。父と母は互いにいたわり合いながら、貧しい中にも心休まる

家庭を作り上げていた。だが父は心の片隅に、母親と同じ病が妻の中に潜

んでいるかもしれない恐れを持ち続けていた。恐れはついに現実となり真

一と父の上に襲いかかってきたのであった。

 母親が発狂してから家族の団欒などといった時間は望むべくもなくなっ

た。真一は夜中に何度も父の嗚咽を耳にした。母親の甲高い笑い声は破れ

た障子を震わした。父は小さな娘の面倒を見るように母に接し、

「こうなることは結婚する前から分かっていたこと。だから自分は一生オ

ッカアの面倒は見る。お前はお前で自分の好きなように生きてくれ」父親

は真一にそればかりを繰り返した。父は母の世話を楽しんでいるようにさ

え見えた。母は日に日に幼児化していった。

 父親が母親代わりを努め真一を学校に送り出した。やがて父がいればど

れほどの問題もないように思え始めた。だが事態はそんな簡単なもではな

かった。真一が学校へ行く朝である。着物の裾を引きずりながら母親が、

真一の後をついて来るようになったのだ。共に登校する近所の仲間が、奇

妙な姿の母親を指差せば、真一はそれが死ぬほど恥かしく、「ケエレ、ば

か野郎」怒鳴っては路傍の石を拾っては投げた。石が母親の額に当たり血

をしたたらせながらも母は真一の後を追った。

 真一が高校を出た年に父親は過労がもとで死んだ。真一は父に代わり自

分が母の面倒を見ようと決めた。そんな矢先、真一は静かな真冬の夜に祭

囃子の音を頭の中に聞いたのだ。真一の指先が震えた。そして自分の体に

も母と同じ狂人の血が流れているのを察したのだ。忌まわしい血を真一は

呪った。

「オッカア。もう終わりにしような」真一は呟いた。睡眠薬の入った水を

母親に飲ませ終わると、自分もコップの水を飲み下した。油の染みた布の

上に蝋燭が立てられている。蝋燭が燃え尽きる時、布は真っ赤な炎になっ

て二人を覆い隠すだろう。真一は父の位牌を息の途絶えがちになった母の

懐に忍ばせた。蝋がひとしずく涙のようにこぼれ落ちた。

             


                       


    

(しゅうえんのろうそく)

終焉の蝋燭

高安義郎