老人と別れ、私は黙って雪道を歩いた。ともかく山を下りることだけが今私の

するべき唯一のことのように思われ、何かに急かされたように歩いた。凍った雪

の上に危うく立ちふと振り返ると老人の顔が浮かんだ。冬枯れの木々の透き間を

風が通り過ぎる。風は小枝をくぐり抜けて濾過されるのか、冷たく乾ききって私

の頬を打ちつけた。

 その老人は、冬になると山小屋にやって来て三ヶ月ほど過ごし、春には息子達

の所へ帰って行くのだった。老人の名はわからない。戦後復員してから、結婚を

し、町外れの工場に勤めて十五年前に退職したらしい。内孫も二人いるというか

ら、本来は孫達と悠々自適の楽しい生活を送れるはずの老人なのだ。そんな人が

なぜこんな耐久生活の真似をするのか。しかも十五年間も続けているというのだ。

理由はと聞けば「道楽だ」としか答えなかった。だが帰りかけた私の背で言った

言葉が、何度も耳元で繰り返されていた。

 私はなぜか冬山が好きで、学生時代から暇を見つけてはこの山に登った。三日

前のことだ。見知ったはずの道だったが、いくつかある登山道の登り口を間違え

人の小屋にたどり着いたのだった。痛めた足を休ませていると雪はますます激し

くなり、一夜の宿を乞わざるを得なくなった。雪は翌日も続き結局三日間世話に

なったのだ。老人は快く泊めてくれた。

「冬山に来るからにはそれなりの訳があろうが、ご苦労様なことだ」

老人の言葉の意味が理解できなかった。理解できなかった。理解できないと言えば

もうひとつ、なぜこんな高齢になってなお山奥に寵り、息子夫婦が運んでくれた夜

具やレトルト食品には手をつけず、雑炊を作ってはそれをカツカツ啜っているのか

不思議だった。

 老人は冷たい床に座り、仏像を彫ることを日課にしていた。でき上がった像が

数体小屋の隅に並べられていたが、お世辞にも上手とは言えなかった。だがどの

像も悲しげで、手を合わせればかえってこちらに言い知れない辛さが増してくる

ような、そんな寂しい顔だちだった。私も勧められるままに彫刻刀を握り、見よ

う見真似で地蔵菩薩を彫った。家人に告げてある下山予定にはまだ日があったが、

天候や捜査のニュースが気になり携帯ラジオをつけると、老人はうるさがった。

木を削る鑿の音と、降り積もる雪の音を聞きながら、私は不器用な手で丸太を削

った。

 老人は思い出したように口を開くと、私の仕事や冬山の好きな理由を聞いた。

手短に答えた後で私も老人のことを尋ねると、彼は枯葉でも拾うように思い出を

語った。

 五十数年ほど昔のことだという。一兵卒だった彼が終戦を迎えたのは中国の北

部で、その後ロシア軍に連行されシベリアに抑留されたそうだ。シベリアでは過

酷な労働を強いられたという。空腹と寒さに耐えながら「生きて故郷に帰ろう」

と戦友たちと励ましあい、互いに郷里の話をしては慰めあった。だが言葉とは裏

腹に、生きる為には友情はあまりにもはかなかった。木を切り倒すと一枚貰える

食券の補助券を、夜中に仲間の所へ盗みに行く者がいた。戦友が落としたものと

知りながら拾い、栄養失調で死にかかった仲間を介抱しながら、褌の紐に結んで

隠した食券を抜き取った者もいた。どうにか口にする食事はほとんど生で、銃殺

を覚悟で盗んだジャガイモも生煮えで食べた。収容所の小屋は薄い板張りで、死

んだ仲間の毛布は奪い合いになった。死にそうな仲間を捜して歩く者もあったの

だと、喉を詰まらせながら語った。別れしなに老人の言った言葉がまだ耳に響い

た。

「生きて帰っても、他人様の役に立つわけでもなかった。詫びねばなあ」

その言葉に追われるように、私は雪山を下った。