高安義郎
施設に入ったばかりの母は家に帰りたがりました
「ここが母さんの部屋ですから」
繰り返し説明しても分からない母を前にし
慣れるためのひと月が早く経つよう
そればかりを願っていました
日差しに春が感じられるようになった頃
母は談話室の仲間とうち解け始めたようでした
昨日の午後は
昔取った杵柄(きねづか)の踊りを仲間に教えたそうです
「周りに人が居ることに慣れたようです」
担当の介護員から聞きました
それで良かったはずでした
僕の心は安堵してしかるべきでした
なのに寂しさが押し寄せたのです
引き潮にさらわれてゆく桜貝を見るようで
何故か素直に喜べないのでした
僕は母の部屋に座り
家から運んだ掛け時計を見つめていました
母の好きであった曲を奏でる時計です
僕は束の同
母と共有した時を思い出しているのでした
時計が三時のスターダストを奏でた時です
「どんな罰が当たったんだろう」
母が声を震わせました
僕ははっとして耳をそばだてるのでした
母は今の状況を理解しているのでしょうか
返す言葉が見つからず
気付かぬ素振りで僕は時計を見いっていました
近くの道を小学生の一団が通ります
甲高い声はオルゴールのようで
やがて丁字路の向こうに遠のいてゆきました
「アキオが帰ってきたようだ」
昔の中の笑顔に母は戻っていました
孫のアキオは大学生ですが
母の時計は十年程が壊れていました
今の時間を拾い上げれば
悲しみが母の心を打ちのめします
切れ切れの遠い過去を漂う時間は
孫との楽しい思い出の中で
暮らせるひとときでした
今日の時計のスターダストは
母にはいつの三時を奏でているのでしょうか