私の高校時代の恩師であるその先生の家には三代の肖像画がある。初代は骨董屋で
二代目がこれを継ぎ、三代目が高校の教師になったところの我が師である。先生は学
校を定年退職すると間もなく、好きだった酒の為にアルコール性肝硬変を患い、それ
がもとで亡くなられたのだ。
私は今でも先生の命日になると仏前に線香を上げにやって来る。私はこの先生の影
響で教師になった。先生は生徒思いで生徒の為には校長までも食らいつき、生徒がど
んなに見え透いた嘘を言っていようと真剣に信じようとした。専門だった数学には情
熟を持って教えてくれた。私たちは仲間と、先生には聖人の血が流れているのだと噂
をし先生の家系にまで興味を持った。
私が教員採用試験に合格した日、先生の好きな酒を持って報告に行った。先生は自
分のことのように喜んでくれた。その日、壁に掛かった二枚の肖像画を初めて見た。
大人物を思わせる威風堂々とした二つの肖像画は、この先生を産むに相応しい人格者
に見えた。
「この肖像私に似ているだろう。この祖父の話を聞く気があるかね」
と先生は言われた。私は連綿とつながる人格者の血の系譜を是非聞きたいと思い、話
を乞うた。
祖父に当たられる方は幸作といい、貧しい農家の次男坊だった。彼は生来の虚言癖
があり、近所のご隠居さんに近づいては大事にしている骨董をだまし取り、これを余
所で高く売っては小金を貯めていったという。やがて町の骨董屋に出入りをし、目が
肥えだすとあくどい商売を始めたという。田舎の気のいい旦那衆を口車に乗せ、十円
で仕入れた軸を千円で売り・旦那の秘蔵の値打ちの品を適当な目利きで買い叩く。そ
うして集めた品々は法外な値で売り飛ばし、瞬く間に財を蓄え大きな店を構えたらし
いとのことだった。
そんなある日のことである。幸作の店に一人の若者がやって来た。若者は「骨董の
目利き修業をさせてくれ」と言った。下働きの若者は置きたいが給金を出したくなか
った幸作は
「給金なしでよければ雇おう」
と高飛車に出た。若者は勉強だからとその条件を飲み、文句も言わずに良く働いた。
若者の働きっぷりは町の旦那衆の間でも評判になった。
三月ほどたった頃だった。その若者がどこからか三尺程の阿弥陀像を持ち出してき
て、
「これは、あるお屋敷のご主人様から預かったもの。そのご主人はちょっと仕事で
しくじって二万円ほど用立ててくれる人を捜している」
と言い出した。聞くところによるとこの仏像は、かの正倉院のお宝で、どこをどうし
たものなのか、巡り巡って今あるお方の家宝だと言う。仏像にさほど詳しくなかった
祖父は、話を聞いているうちに国宝級の仏像に見えてきた。若者のたっての勧めもあ
り、しばらくそれを店先に置いた。そして数日後のことだった。黒いマントの初老の
紳士が入って来ると像を見るなり大声で叫んだ。
「これはぜひ譲り受けたい。十万円でどうでしょう。いや二十万円出しましょう。後
日持ってまいるのでくれぐれも誰にも譲らぬように」
そういい残して出て行った。幸作は若者を使いに出した。この像を二万円で買い入れ
るように指図したのだ。使いに立った若者は
「五万円でなければ売れないそうだ」
と言ってきた。当時の五万は今の五千万円に相当するということだ。何とか仏像を我
が物にした幸作は、黒マントの男を待った。ところがである。その後どれほど待った
とて黒マントの男は来ない。それどころか住込みの若者も姿を暗まし、二度と店には
現れけつた。この時の借金で祖父の店は一時潰れかかったということだった。
酔いが回ると先生は
「自分にもあのおじいさんの強欲と間抜けの血が流れてるんだ」
そう言って笑った。先生の先祖は大人物どころかその正反対の人だったのだ。ところ
が私はかえってそれで、尚のことこの先生が好きになったものだった。


