私と同(おな)い年の友人のまこと實が定年退職を迎えた日、奥さんと娘さんがささやか
なご苦労さん会を開いたそうだ。實は家族の気持ちが嬉しくなり、老後の小遣いにしよう
と長年貯めていた社内預金を半分下ろし、
「もう働くのは金輪際(こんりんざい)いやだが、これまで気持ちよく働かせてくれた礼だ」
そう言って奥さんと娘さんに五十万円ずつ渡したそうだ。最初奥さんは辞退したそうだが、
「指輪でも買えば」そんな娘の言葉で受け取ったという。
その後實には毎日が休日となり、ひと月がゆったりと過ぎた。だが昼間誰もいない家に
引き籠もっていると次第に消えていくような錯覚にとらわれたらしい。そんな頃家族の言
葉が妙に気になりだしたという。
「今日はまだ部屋の掃除をしていないの」とか、
「時間がなかったから夕飯は何もないわよ」
そんな奥さんの言葉は、考えてみれば實が現職だった時にも普通に耳にしていた言葉だが、
今では實への当てつけのように聞こえるのだそうだ。
「お父さん、何か趣味はないの?」
そんな娘のアドバイスさえ『家にいるな』と言っているように聞こえるらしい。家族が自
分を邪魔に思うはずがないではないか。實は自分にそう言い聞かせたが、妻がパートから
帰ってくると、急にあれこれ指図をするような声が響き、しかも語尾が強くなり畳みかけ
てくるように感じると言う。友人に出した葉書が住所間違いで帰った来た時、
「また間違えてる。まだパソコンの住所禄を書き換えてないでしょ」
奥さんの声は非難がましく響いたらしい。言外に『用がないんだからそれくらいやってお
きなさいよ』そう言っているように聞こえたというのだ。ある日、
「夕飯はどうするんだい」實が言うと、
「晩ご飯の支度くらいしてくれたっていいのに」
奥さんの小声が實をどなりつけているように聞こえたという。
自分はこれまで家族に威張ったことはない。家族の為に自分の楽しみを削って面白くも
ない仕事を三十八年間勤め上げてきたのに、退職してしまえばこれまでの努力は評価され
ないのか。そう思うと自分が急に哀れに思えてきた、と私にこぼした。
春も過ぎようとしているのに心には寒い風が吹いていた。自分には安らぐ場所がないの
だ。そう思った實は家にいるのがいやになってきた。とはいえ一人旅をする勇気もなし、
老後の小遣いも一時の安っぽい感傷で家族に分けてしまったのだ。自分の愚かさが恨
(うら)めしくなったようだった。
私が實を訪ねたのは丁度そんな折のことであった。
實は私を近くの喫茶店に連れ出した。私は熱いコーヒーを見つめながら懐かしさにまか
せて昔話を始めた。しばらくすると實は視線を落とし沈んだ声で、
「俺なあ、家で居場所がねえんだ。最近、いつ死んでもいい気がしてきたよ」
實のその言葉は、境遇の似た私の心を代弁しているように聞こえた。
「奥さんの態度が冷たく感じるんだろ」私は聞いた。
「そうなんだ。女房に『お前冷たくなったみたいだな』て言ってやったら、あんたのひが
みよって言われた」沈んだ口調で言った。
沈黙が続いた。
湯気が立たなくなったコーヒーカップを見つめながら、
「働かなくなった男は、ひがみっぽくなるんだろうかな」
「でも女房だったらそこのところ、気を遣(つか)ってくれてもいいと思うんだ」
と呟(つぶや)いた。
「最近家族の夕飯の茶碗を洗ってるんだ」實が言った。
「俺も洗ってるよ。流れる水を見てると俺が排水溝に流されてるみたいに感じることもある」
私は言った。
「やっぱり男は働いていなければいけねえな。何でもいいから働いている時が花だなあ」
實の言葉に私は何度もうなづいた。二人は冷めたコーヒーをすすった。
「冷めたコーヒーって俺達みたいで苦いだけだな」
「まったくだ。流しに捨てられないうちにもう一度熱くなるか。パートだっていいじゃねえか」
私が言うと實は目を輝かせ、
「よし探そう」そう言ってコーヒーのお代わりを頼み、二人は湯気の立ち上るカップで乾杯す
ると、連れだって職探しに歩き始めたのだった。

(挿絵 芝 章一)
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