校庭で遊んでいた勝治は膝をすりむいた。血がにじんだが、いつもなら放って
おく怪我だった。だが、その日理科の授業で聞いたばい菌の恐ろしさが頭をかす
めた。少しばかり気になり医務室に行くと、養護の先生が言った。
「おや勝治君じゃないの」膝の血を見ると、
「ころんだのね」
急に優しい口調でガラスケースから消毒液を出して拭いてくれた。傷口から泡
が吹き出した。
「先生この泡、なあに」勝治は聞いた。
「ばい菌の死骸よ」
そう言いながら先生は絆創膏を貼ってくれた。
「どう、痛い?」
勝治には痛みなど気にならなかった。それよりも頭の中には先生が言った
『ばい菌の死骸』の言葉が気になった。
「先生その消毒薬は何ですか」
「オキシドールよ」
勝治はひらめいた。オキシドールという薬品はばい菌を殺して泡にする薬なの
だ。ならばこれを塗れば、ばい菌がいるかいないかがすぐに調べられるに違い
ない。勝治は目を輝かせ、
「オキシドールってどこで売ってますか」
「どこの薬局だってあるわよ」
勝治は保健室を飛び出すと家の近くの薬局に飛び込んだ。
「オキシドールください。いくらですか」
「小さい方は二百三十円」
「それください」
小学生の小遣いで買えた。ばい菌を検出する貴重な薬品が意外に安く買えた事
がむしろ不思議だった。
家に帰るとさっそく膝の絆創膏をはがし、傷口にばい菌が残っているかどうか
確かめた。血がにじんできた。オキシドール液を垂らした。瞬く間に泡があふ
れ出た。
「まだばい菌だらけだ」
急いで新しい絆創膏を貼り付けた。それから勝治は家の脇のU字溝をのぞいた。
どす黒いヌラヌラした物が漂っている。これこそばい菌の塊だ。そう思った勝
治はオキシドール液を振りかけた。おびただしい泡が発生するのを想像した。
ところがである。溝には何の変化もなかった。
「おかしいな。ばい菌はいないのだろうか」
ふとみると足下に犬の糞らしい物がある。これこそばい菌だ。そう思い液をか
けた。しかしこれまた泡らしい物は出ない。
『どぶや糞にはばい菌はないのだろうか』
首をかしげながら台所に行くと椎茸とジャガイモが転がっていた。夕食にはよ
く生野菜を食べるのを思い出し、『野菜にばい菌がいるはずない』そう思いな
がら液を掛けた。すると、なんと椎茸やジャガイモの傷口あたりから泡がしき
りに吹き上がったのだ。
「お母さん、大変だよ。野菜がばい菌だらけだよ」
勝治は思わず叫んだ。母親は悲鳴のような声を聞きつけて飛んできた。
「どうしたの。怪我でもしたの」
「そうじゃないんだ。ばい菌はどぶやウンチにはなくって野
菜に多いんだ」
母親は何のことか分からず、呆れたように
「ばい菌がどうしたのか知らないけど、驚かせないでよ。汚いものを触ったら
手を洗いなさい」
「違うんだよ。野菜はね」
勝治がどんなに説明しようとしても母親は上の空で聞いてもくれなかった。勝
治は手にオキシドールをかけた。だが泡は出てこない。
「なんだ。手にはばい菌なんかいないじゃないか」
呟きながら近くにあったキャベツを水で洗い、ジョリと一口噛むと噛んだ辺り
に液を掛けた。すると泡が吹き出した。
「キャベツもばい菌だらけだ」
勝治は思わずふるえを感じた。震えながら考えた。いままできれいだと思って
いたものはばい菌だらけで、汚いと言われていたものは本当はきれいなのだ。
この世の中は一体どうなっているのだ。勝治は何が何だか分からなくなり、大
声でわめきたい衝動に駆られた。
しかし、何事にもすぐに気が移る性格が幸いしたのか、勝治はばい菌のこと
で思い悩むこともなく、何時の間にオキシドールの事を忘れていった。
勝治が高校生になると、この泡は、血液や野菜の中にあるカタラーゼという
酵素によってオキシドールの過酸化水素が分解され酸素が発生することを知っ
たのだった。では養護の先生の言葉は何だったのだろう。科学の中途半端な知
恵は人心を傷つける。勝治そんなことを十年越しで悟ったのであった。
