



彼女に付き添って僕は救急治療室の前のソファーに座り「最後に尋ねて
くれた方へ」と記された手紙を読み始めた。
「私は一匹の、人懐こい野良犬を知っています。それは駅の裏にできた大
きなマーケットの周辺にたむろする犬たちの一匹で、仲間は三〜四匹いる
ようでした。マーケットには食料品店や食堂が沢山あり、夕方になると賞
味期限のきれた食品や食堂の残り物などが、ごみ集積所に出されます。野
良犬や猫たちはこれを食べ、人気の少ない夜になると忍び込んで来ました。
時には警備員に追われもしますが、それでも十分な栄養でみんな丸まると
太り、いい毛並みをしておりました。飼い猫の仲間入りすることがあり、
多い時は二十匹を超える野良犬たちの大宴会になることもありました。
ある時でした。飼い犬に死なれた中年の男性が通りかかり、捨てようと
して持っていたのでしょうか、真新しい首輪をその人懐こい野良犬にかけ
たのです。野良犬は急に良家のペットのようになりました。立派な首輪が
人を安心させたのでしょうか、石畳で昼寝をしたりしていると、犬好きの
人たちが寄って来て頭をなでました。面白半分なのか可愛いと思ったから
なのか、首輪に「ペンダント」を下げた人もいました。すると、この悪戯
を面白がって次々にいろんな人がペンダントを下げて、いつの間にか首輪
はペンホルダーのようになりました。この犬が昼寝をしている場所は決ま
って『ネージュ』というケーキ屋の前でしたので人々は、いつとはなしに
“ネージュ”と呼ぶようになりました。
変わった犬がいるという評判が立ち、女子高生が学校の帰りに見に寄り
ました。そんな高校生の一人がチョッキを作って着せました。そのチョッ
キは偶然ネージュにぴったりでした。ますますネージュの人気は高まりほ
とんどタレントのようでした。ふと私の若い頃を思い出しました。
ネージュの食事は他の仲間と違っていました。朝はパートのおばさんに、
昼は近くのOLの娘さんのお弁当を分けてもらい、夕方は屋台のおじさん
から御馳走をもらうようになりました。これといった芸があるわけではな
かったのですが、人懐っこさと愛嬌のある水色の目が多くのファンを作っ
たのでしょう。こんなこともありました。地方のテレビ局が『街の人気者』
という番組の取材に訪れネージュが紹介されたのでした。テレビの力はす
ごいものです。番組を見た近くの人はネージュに小屋を寄付したり、人間
様のいただくような牛肉までも御馳走しました。
そんな日がどのくらい続いたことでしょう。やがて着ていた可愛いチョ
キもすっかり汚れ、ペンダントも壊れだし、次第にみすぼらしくなりまし
た。
すると、次第にというよりも急にと言った方がいいでしょうか、誰もネー
ジュに見向きもしなくなったのでした。もちろん餌をくれる家などなくな
りました。すり切れたチョッキは足にからまり、ガードレールにひっかか
っては道行く人に笑われました。お腹が空いて昔の集積所にも行きました。
でも、仲間には余所者扱いされ追い出され、警備員にもどやされました。
小屋まで作ったお家の人さえ水をかけて追い払うのです。お腹が空いてふ
らふらになり独りぼっちで私の家にやって来たのが、丁度クリスマスの前
の日でした。“ネージュ”と名付けたのは実は私でした。私にとってネー
ジュは他人のような気がしません。何とか助けてやろうと致しましたが、
弱りきったネージュの体は、もう水さえ飲む力がありませんでした。そし
て、とうとう今朝になって天に召されて行きました。私も最後の力を奮っ
てこの手紙を書きました。 さようなら。「最後に訪ねて下さった方へ」
僕は犬と一緒に倒れている彼女を見つけ救急車を呼んだのだった。雪の
降り出した窓を見つめながら読み終えた手紙を握り、僕は若かった頃の彼
女の舞台を思い出していた。
