



宝泉寺と言う寺に、人からムサシと呼ばれる寺男がいた。ムサシ
には発達障害があり、人の名前は愚か自分の名前も忘れてしまう始
末だった。
子供の頃学校ではいつもからかいの対象だった。
ムサシが好きだったのは掃除だった。仲間はこそこそ隠れ、掃除
当番をサボっている時でも、ムサシは校庭を隅から隅まで丁寧に掃
くのだ。
掃除が終わると決まって竹箒を竹刀のように握り、いつか見た芝
居の宮本武蔵を真似て振り回した。それを見て仲間達からムサシと
渾名されたのだった。
ムサシはいつの間にか自分の名前はムサシだと思い込みむように
なり、学校を卒業すると町の世話役のすすめで宝泉寺の寺男として
住み込むようになったのだった。
寺の住職はムサシを温かい目で見つめ面倒を見た。
「お前の名前はムサシではなく川上だよ」
住職は幾度も教えたが、数日後には忘れてしまい、住職が「モトム
や」と呼んでも返事をしない。だがムサシと呼ぶと、元気よく返事
をするのだ。しまいには住職もムサシと呼ぶようになっていた。
ムサシが二十歳半ばのことだった。宝泉寺に一人の修行僧がやっ
て来た。京都のとある寺で数年修行し、素行が悪いからと追い出さ
れ地元のこの寺にやってきたのだ。それはムサシの小学生時代の仲
間の一人だった。
「ムサシじゃないか。いつからここにいるんだい。俺だよ、太田ミ
ツルだよ」
そう言われても昔の仲間の名前など覚えていられるムサシではない。
宝泉寺の住職には跡継ぎが無く、親類筋にあたるミツルに寺を任
せようとしていたのだ。ミツルは物覚えの良い男で、学校時代はい
つも級長を仰せつかっていた程だ。
そのミツルは坊さんになることに興味は無かった。とは言え他に
やりたいものも無く、親の勧めで僧侶の道をしぶしぶ歩き出したの
だ。
ミツルはムサシを下男のように扱った。命じた事を間違えると、
「この役立たずが」と罵(ののし)った。
ミツルは酒が好きだった。住職が注意しようとすると、
「おれは頭がいいから、一度聞けば忘れない。同じ事を言わない
でください」
そんな反抗的な暴言を吐いた。
ミツルが来て五年ほどしたある日、もともと高血圧に悩まされ
ていた住職はあっけなく脳溢血で他界してしまった。
ミツルが住職に代わって檀家周りや朝のお勤めをすることにな
ったが、毎朝五時に起き、七時には本堂で太鼓を打ちながら読経を
するのが億劫になってきた。そこで太鼓をムサシに打たせることに
した。
そうして半年ほど経ったある日のこと。ムサシは太鼓を打ちなが
ら法華経の一説を唱え始めたのである。お経のリズムがムサシには
快く響き覚えやすかったのだろう。読経を聞いたミツルは、
「ムサシよ、お前明日からここで経をあげてくれ。俺は他にやらにゃ
いかんことがある」
ミツルは朝の勤めを放りだし、自分は朝寝を決め込むようになった。
ムサシが住職に代わって朝の勤めをするようになって半年が過ぎ
たある時、檀家に葬式があった。ミツルはムサシを連れて枕経に出
かけた。いざ枕花の前に座ると、どうしたわけかミツルの口から経
の文句が出てこなかった。半年もの間怠けていたせいだろう。する
とムサシが小さな声で、
「如来受領本題十六 ジーガートクブツ ライショキョウショ」
と読み上げ始めたのだ。そのリズムに会わせ、ミツルはどうにか経
をあげられたものだった。 寺に帰るとミツルはムサシに言った。
「ムサシは何も覚えられないというのは嘘だろ」
するとムサシは言った。
「前の御前様が言ってた。頭で覚えたのは借り物だからいつか消える
が、心で覚えた物は目や鼻と同じだって。だからムサシのお経は本物
だって」
何を思ったかそれを聞いたミツルは朝の読経をするようになり、ムサ
シを友として扱うようになった。
「前の御前様は他にどんなお話をされていたか話してくれ」
ミツルはムサシの口から先代の教えを聞こうとしたのだ。
二人は共に八十九歳まで寺を守ったと言う事である。
二人の墓は今も宝泉寺山門脇にまつられている。
