


幸一は虎ノ門にあるB庁に勤務し二年目になる。この四月、隣の部署
に若い臨時の女性職員が入ってきた。彼女は幸一の部署の臨時職員で
ある佐和子の友達でよく部屋にも顔を出した。名前を智子と言った。智子
は佐和子と違い他人への気遺いのできる女性で、幸一の好みのタイプだ。
だが三か月たった今でも幸一は彼女に声を掛けられずにいた。
幸一はエリート官僚の道をまっしぐらに突き進んできた青年で、子供
の頃から目指す学校は当然のこと、仕事にも遊びにもその難易度をすべ
て偏差値で考えた。偏差値が高ければ参考書を買い込み、内容を熟読し
たあとシミュレーションし、行動は全て完全なものにしようと考えていた。
「書物はすべからく理にかなった方法を示唆してくれる」
それがこれまで生きてきた幸一の信念だった。
智子に話しかける難易度は高い。偏差値は六十を超えるだろうと考え
た。さっそく本屋に参考書を求め勉強にかかった。本屋では奥の棚に『女
性心理学』の本を見つけた。まずこの本からだ。これを読めば恋愛学の偏
差値六十はクリヤーできる。そんなことを考えながら外を見た。歩道には
高校生らしい男女が楽しそうに話しながら通る。はたして彼らはこのような
心理学を学び終えているのだろうか。とても彼らが読破しているとは思え
ない。ではこの本をマスターすれぱ偏差値七十は固いかもしれない。ふと
父の口癖を思い出した。
「経験から得る知識は独善に陥りやすく、常に遠回りする」
しかりである。彼らは本能的な経験に任せ、浅い会話を楽しんでいるだ
けだろう。それでは本当の楽しさを相手に与えられるものではない。頁
を送りながら幸一は自分の考えに納得して頷(うなず)いた。
本を読みながら官僚の王道とも言うべきT大受験に必死になった昔
を思い出した。
五冊目の本を読み終えた翌日、自信を持って受験に臨むような安心感
で登庁した。その日の十二時、いよいよ試験の瞬間である。いつものよ
うに智子が佐和子の所にやって来ると何気なく窓のブラインドを開け
た。
「香炉峰の雪は御簾を掲げて見ると言いましたよね」幸一はすかさず言
った。相手の行動に注意を払いその動作から連想される話題を自然に引
き出す。これは『話し上手が差を作る』という本にあったアドバイスだ。
智子が微笑んだ。幸一は内心しめた、と思った。だが小さな部屋には、
ぎこちない緊張が漂(ただよ)った。すかさず佐和子が言った。
「なあにそれ? 学校の古典の時間思い出しちゃった。やあだ、つまん
ない。それより智子回転寿司にする?」
幸一の心を踏みにじるような言葉を残して出て行った。静寂を破り、同
僚の高橋が顔をしかめながら
「お前なあ、あんな話したんじゃ嫌われるぞ。もっと軽い話題ない?お前
を見てると歯痒(はがゆ)くていらいらする」
と言った。すると幸一は
「ここに、相手の行動に関する話題をと書いてある」
本を差し出しながら言った。
お前馬鹿か。マニュアル病ってやつだ。本など何になる」
高橋は本を投げ返した。
「いや本は絶対だよ。総て正しいことが書いてある」
言い返した。
「それじゃ聞くが正しい生き方を書いた本があるのかい」
そう言い捨てた。幸一は佐和子の態度を思い起こし、偏差値の査定に誤
りがあったかもしれないと考えた。同時に、本をばかにする高橋の態度
を哀れんだ。高橋に恋人ができ、どう接したら良いかを聞きに来るまで
待ってやろう。その時本の大切さを話してやろうと考えた。
二週間ほどしたある日、佐和子が幸一に言った。
「知ってた?智子ったら高橋さんと婚約したんだって」
幸一は唖然(あぜん)とした。学生時代、隠れて勉強する仲間がいたこ
とを思い出した。高橋はどんな本を隠し読んでいたのだろう。幸一は教
えを乞うように
「どんな本を参考にしたの」
高橋に聞いた。高橋はしばらく黙っていたが
「君は赤ん坊の時も乳の飲み方を勉強したのかい。まあ、一生勉強し続
けなよ」
呆れたように首をすくめた。