高安義郎


                           
 「パパよりママの方がいい大学を出たのよね。頭いいんだね」

娘が言った。

「そんなことパパの前では言わないのよ」

そう言いながらも母親は娘の言葉に、ある種の快感を覚えるのだった。

「私もママの出た大学にゆくわ」

母と娘が二人の時は、いつもそんな話をしていたのだ。確かに娘は、中学生時代から優秀

な成績で、高校は地元の者ならば誰もが憧れる進学校に入学していたのだ。この家には娘

の他に兄が一人いた。名を正之といった。正之は夢見がちな少年で、いつも一人机に寄り

かかっては、自分しかできない物は何か、世間をあっと驚かせるような仕事はないか、そ

んな事ばかりを考えては、カリスマ的地位に上り詰めた自分を想像しては、空想の世界に

酔うのが癖だった。空想に飽きると、台所に潜り込み冷蔵庫の中の残り物を使っては料理

をして楽しんだ。そんな正之の学校での成績は芳しくなかった。

「お兄ちゃんはパパに似たのよね」

娘は兄を馬鹿にすることで母親の愛情を独り占めしようと考えていた。そんな比較論しか

考えられない兄妹に正常な肉親の情が芽生えるはずもなかった。

正之が高校を卒業を控えた秋のことだった。大学に進学せず料理人になる為の専門学校

に行きたいと言い出した。

「何を言っているの。パパはあんな大学しか出ていないから今でも係長どまりなのよ。

あなたにまでそんな人生を送らせたくないの。まだ間に合うから勉強をしなさい」

母親は目をつり上げてたしなめた。

「パパも何とか言ってくださいよ」

母親の剣幕に父親は、

「オレが万年係長なのは、大学のせいじゃないさ。単に派閥競争ではじき出されただけ

だ」

「その派閥だって、良い大学を出ていれば勝ち組に居られたんじゃないの?」

妻の棘の有る言い方に父親は、会社で様々な苦労に絶えながら働くことが馬鹿馬鹿しく思

えて来た。こんな娘や女房の為に、何故自分は絶えなければならないのか。そう思うと息

子には何も言う気持ちにはなれなかった。

正之は専門学校に入学が決まると、母親は世も末だと言わんばかりにふさぎ込んだ。そ

れを見て娘は言った。

「ママ、お兄ちゃんの代わりに私がいい大学に入るから。がっかりしないで」

その日を境に、母親は娘だけに期待をかけ始めたのだった。

翌年、正之は料理学校のある関西に家を出た。年子だった娘は有名大学進学の為の猛勉

強が始まった。業者模試では合格可能性はBランクであった。Bランクならばかなり高い

確率で合格できる範囲だ。ところが翌春の受検で娘は思わぬ失敗をして不合格の憂き目に

あったのだ。受検仲間には合格を豪語していただけに、友達と顔を合わせることを嫌い始

めた。娘は浪人はしたものの思うように成績は伸びず、しだいに予備校をさぼるようにな

った。夜遊びをするようにもなった。母親の苦言に対して言った言葉は、

「ママ諦めてよ。あたしやっぱりパパの血を引いたのよ」

そんな捨てぜりふを残し、ジャズミュージシャンを目指すとか言う煮え切らないフリータ

ーの男と、駆け落ち同然に家を出て行った。

「これも、あなたがいい大学を出なかったからだわ」

妻の暴言に夫は言った。

「お前は大学大学と言うが、勉強と言うのは、人生のつまづきを乗り越えるシュミレーシ

ョンの場じゃなかったのか」

「そんなこと綺麗事よ。あなたがもっと良い大学を出てれば、それで良かったのよ」

「大学は関係ない。その証拠に・・・」

言いかけてやめた。実は春の人事異動で会社内の雰囲気が一転し、彼は東北支店の支店長

に抜擢されたことを話すつもりだった。結局単身赴任を期に離婚の話が見え隠れした。赴

任先に赴く列車から妻にメールを送った。

「ママの周りに今誰が居ますか?大学で何を勉強してきたの?僕には大学が君の心を壊し

たようにしか思えないんだが」

それを見た妻は、

「英会話は得意だわ」

そう打ち返そうしたのだが、これまでの生活で英語など話したことなど無いことを思うと

送信する手が凍り付いた。