紅茶のひととき

高安義郎


        
                   
 

   還暦を迎えた誠次は手製の庭椅子に座り、里山の色づいた木々を見つめていた。そこ

  へ妻が紅茶を運んで来た。誠次は紅茶をすするとため息をつき、

   「俺の人生、何だったのかなあ」そう呟いた。

  地方の大学を出、名の通った会社の下請けのその又下請けの会社に勤め、単身赴任を繰

  り返しながら二人の子供.を育ててきたのだ。その子供達も独立し新居を構え、孫も二人

  になった。
  「クラス会ですってよ。どうします」

  紅茶と一緒に持って来た二枚の葉書のうちの一枚を差し出しながら妻が言った。高校

  のクラス会の案内だった。ふと高校時代に仲間の一人か言った言葉が脳裏に浮かんだ。

  「今の時代は良い時代とはいえない。だからこんな時代に子供を育てるのはかわいそう

  だ。子供は良い環境の中で育つのが理想だ。だから俺は子供を作らない」

   それを聞いたとき誠次は一理ある考えだとは思ったが、自分はいつの間にか子供を設

  け、その子供達も生活に追われながら。それなりに子育てに奮闘している。

   ふと誠次は思った。人の歴史を見返したとき、子供を育てるのに理想的だった時代と

  いうのが本当にあっただろうかと。よく分からない縄文時代はわからないが、中世から

  江戸、明治大正昭和のどの時代を見ても、一部の貴族や大商人以外の庶民は、皆苦しい

  状況をくぐり抜け、少ない食物を分け合い、その中に楽しみを見出しながら次の時代に

  希望を託し、子育てをしてきたのではないだろうか。

   誠次の親もそうだった。父母は裕福な家庭に育ったが、先の大戦で全てをなくし、お

  嬢様育ちで飯炊きさえしたことのなかった母が、戦後食堂のパートに出たり、箸より重

  い物を待ったことのない父が鍬を握り、泥まみれの暮らしを続けたのだ。誠次は父母の

  そんな苦しい時代に生まれたのだった。友人のように悪い時代だから子供を産まないと

  したならば自分はこの世には存在しなかったことになる。子供を産み育てるという事は

  そんな小賢しい思慮の他であって、どんな時代の中にあっても精一杯子供の為に頑張り

  さえすればそれで良いのだ。誠次はそう思うと、自分が単身赴任をしていた時の寂しさ

  と不便さを家族にあたった事があったのを恥ずかしく思った。

   むろん高校時代のあの旧友には今も子供はいない。たまたま出来なかったのならば仕

  方がないか、さる国の一人っ子政策でもあるまいし、目先の浅知恵で産児制限をする事

  の無意味さを思った。
       
   旧友と言えば、歌手になって都会の一等地に豪邸を建てることを夢見ていた仲間がい

  たのを思いだした。彼女は念願が叶い幾つかヒット曲を出し、年賀葉書に豪邸の写真を

  送ってくれた事があったが、今ではその屋敷も売り払い、三回の離婚の末に家族はばら

  ばらのようだ。現在どこで暮らしているか音信不通だ。

  「どうしたの」妻が聞いた。

  「いや、俺も終わりかなと思ってさ」

  「何が終わりよ。馬鹿みたい。それより、それどうしよう」 妻は葉書を指さした。

  「私にも來てるのよ、同じのが」言われて誠次は笑いが込み上げた。妻は同級生だった

  のだ。高校卒業後一回目の同窓会が二人の馴れ初めだった。

  「あなたは美奈子が好きだったでしょ。今度の幹事は美奈子だから行くのやめようかな」

  妻が言った。

  「何を馬鹿なこと言ってるんだ。俺は何とも思ってなかったさ。向こうが勝手に熟をあげ

  てたんじゃないか」

  「あらあなた、そんなにもてたっけ」

  「昔の事は忘れたよ」誠次はほくそ笑みながら紅茶をすすった。

  「美奈子が離婚したのは聞いてるでしょ。今度は美奈子の娘さんが離婚して、子供を連れ

  て帰って来たんだって。なんだかみんな大変ね。うちなんかいい方だわ」

  妻の言葉に誠次は『ことによると平凡な自分は幸せなのかも知れない』そう思った。

  そう思うと急に妻が愛おしく思え、

  「あんただけクラス会に行って来いよ。俺はいいから」誠次が言った。

  「馬鹿ね。美奈子のことは冗談よ。一緒に行こうよ」

   妻の言葉が何故か弾んでいるように聞こえるのだった。