喜劇
 一人息子が大学生になり家を離れると松子は急に手持ちぶさたになった。そんな折、

松子の女子高時代の仲間のキー子が尋ねてきた。キー子は学生時代演劇部に所属してい

たが、現在その時の仲間を中心にして作った小さな劇団の一員だった。キー子は松子に

劇団に入るよう勧めに来たのだ。松子も少しばかり演劇部にいた経験もあり、すぐに入

団したのである。

 松子の夫は町役場に勤めるまじめで優しい男だった。松子が劇団に入団し練習で夜遅

く帰宅しても文句一つ言わず、「今度見に行くよ」と応援さえしてくれた。

 劇団は丁度過渡期にあった。これまで公演してきた出し物は観客が見飽きているよう

で、劇団存続の為にも何か新しい物に挑戦すべきだという機運が高まっていた。丁度そ

んな時期にリーダーが体調を崩して入院し、キー子が座長を仰せつかったのだった。

「新しい劇のアイディアはみんなに任せるとリーダーは言ってたわ」

キー子の呼びかけに、数日して出された案は喜劇に挑戦しようということだった。

「喜劇の台本、何にしようか。既成のシナリオじゃつまんないし。良い物もないしさ」

「吉本の真似したってしょうがないしねえ」

「そうよ、どたばたは芸術じゃないもの」

「いいや演劇は娯楽よ。芸術なんて思わなけりゃいい」

「そりゃ違う。演劇こそ総合芸術よ」

侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を戦わせ、気がつくと夜中の十二時を過ぎていた。

「松子、旦那さんに電話するの忘れてるでしょ。怒られるぞ」キー子が言った。

「大丈夫。家の人、私には優しいのよ」

「優しいってのはあやしいんだよ。他に女が居るから女房に優しいってこともあるし」

キー子の冗談を松子は一笑に付した。

 それから数日後のことだった。

「ねえ、自分の旦那が浮気をするかしないかのか賭けをする話はどう?賭けをした友

達は勝つために夫を誘惑するのよ。誘惑に負けそうになる夫にハラハラしながら、最

後に妻の所に帰ってきてハッピーエンドってのは」

「あら、私の家がモデルみたいね。良かったら私がその妻の役をやりたいわ。でも焼

き餅を焼く女の気持ち、分かんないな」

「じゃあ松子は賛成ね。他のみんなはどう?」

その日集まっていた者はみな賛成し、早速キー子がシナリオを書くことになった。

「この劇は台詞で笑わせるんじゃなくて、男と女の怪しい動作をコミカルに演じるこ

とで楽しませるのよ。だから台詞は普通の劇より少ないけど同じ時間をかけるの。演

技力が要求されるわよ」

キー子はいつの間にか監督役をかって出ていた。台本書きが始まって間もなく、キー

子は松子の家に足繁く尋ねてくるようになった。

「まじめな旦那のイメージが掴めないの。松子のご主人ちょっと参考にさせてね」

茶を飲みながら松子の夫をちらちら見ながら観察した。

 それから一月が過ぎた。台本も完成し読み合わせが始まると松子は言った。

「私、やっぱり焼き餅なんか焼いたことないから難しいなあ」

「なに言っているのよ今更」

「だって家の人、私一筋だから。幸せな人間には不幸は演じられないのよ」

松子はそんなのろけたようなことを言った。

 そんなある日曜日のことだった。松子が買い物に出ている間にキー子が尋ねて来ると、

一人で庭に居た松子の夫に何やら耳打ちをした。

 やがて松子が帰ってくると、キー子はいきなり夫の胸にすがりついた。それを見た松

子は、

「何やってんのよキー子。あなたもどういうつもりなのよ」

買い物袋を放り投げ大声を出した。

「分かったでしょ、焼き餅の気持ち。今ご主人に頼んで演技してもら貰ったの」

「嘘でしょ。本当なのあなた」

「そう。今頼まれて」

「嘘でしょ。悪いけどキー子帰ってよ」

松子の剣幕にキー子は取り付く島もなく帰って行った。

 松子はそれっきり劇団に顔を出すことはなくなった。数日して夫は言った。

「この間のあれ、本当に頼まれたんだ。離婚なんて考えてないよな」すると松子は、

「あたりまえよ。これで離婚したら本当の喜劇じゃないの」

目をつり上げながら言った。