その年の社教主事研修は浦和市で開催された。埼玉県人六十名、私達干葉県人
三十名。その他他県の参加者を合わせ総勢百二十名が講習生だった。七月中旬か
ら八月下旬までのおよそ四十日にも及ぶ研修予定表を見なから、軽はずみな応募
をしたものだと私は内心悔やんだ。
千葉からは通い切れず、講習会場に程近いアパートを斡旋(あっせん)してもら
い一月だけ借りることにした。それを話すと私の子供たちは夏休みの半分ほどを、
別荘代わりにするのだと喜んでついてきた。
夏休み早々中学生の娘と小学生の息子はアパートにやって来た。子供達はちょ
っとした旅行気分ですっかり気をよくし、私は私で日頃疎遠だった親子の会話を
取り戻せるような気になった。研修疲れも(いと)わず、研修のない日には子供達
を連れて市内を案内したりした。
だが一週間ほどすると子供達はすっかり飽きてしまった。友だちもいなければ
私が留守をしている間、部屋に閉じこもっていたからだろう。
「せめてゲームでもあればなあ」
息子達はそんな事を呟(つぶや)きながら千葉の家に帰っていったのだった。
それからの日々は長かった。観測史上最高を記録した暑さが続き、夕方になる
とテレビもラジオもない部屋で暑さと無聊(ぶりょう)に苦しんだ。研修仲間達
は近くのビヤーホールに集まって夜遅くまで飲んでいたようだが、外で酒を飲む
のを好まない私は、仲間には加わらなかった。
翌日の講習は襲う睡魔に抗し切れず、講師の皮肉も意に解さずによく居眠りを
した。
盆をはさんだ五日間の研修休暇には千葉の家に帰り、家庭の有り難さをしみじ
み感じたものだった。
研修に戻る日が迫ると憂鬱さか込み上げ、つい声も荒げて妻に言った。
「遊ばせ過ぎず勉強させろ]すると妻は、
「研修に行くのか嫌だからって子供に当たらないで下さい」
鈍器のような言葉を返してきた。
盆を過ぎると研修の日数も急に減リ出したように感じた。リポートもほとんど
完成し、残すところ数日となったある日のことだった。
夕飯を食べにアパートを出ようとすると。
「わあ居たあ。先生わたし。わかる?]
溌刺とした声がした。それは六年前に高校を卒業した教え子の由美と早苗だった。
二人は家に電話をし埼玉に来て居るのを知ったという。由美は短大を卒業し会社
勤めを始めていた。夏期休暇を取り、埼玉大の大学院に通う早苗の所に遊びに来
たのだという。二人はすっかり女らしくなっており、一瞬どう接していいか戸惑
うほどだった。
「まあ上がれよ。二人とも飲めるんだろ?」
暑苦しい部屋で缶ビールを飲んだ。ビールはやがて焼酎に代わり、一晩中氷をか
き回す音を立て、尽きない思い出話に腹をかかえた。
翌日二人は市内観光をするのだといい。目をこすりながら出て行った。夜明し
をしたにもかかわらずその日は居眠りは出なかった。若いエネルギーと同調した
からだと勝手に想像した。
講義が終了し、昨夜の余韻に浸りながら寂しいアパートに帰ると、入り口には
夕べの二人が立っていた。
「先生また来ちゃった。1人じゃ寂しいと思ってさ。一緒に飲もう?」
買い込んできたインスタント物でまた酒盛りか始まった。昨夜の徹夜がたたり、
さすがにその日は酒も進まなかった。やがて二人は泊まって行くことを勝手に決
めこみ、私にワイシャツやパジャマを出させ、それを着込んだ。
「わたし先生の隣で寝よ」早苗が言った。
「子共みたいな奴だな、彼氏はいないのか」
そう言いながらも私は悪い気がせず、ふと淡いものさえ感じた。
翌日早苗は朝早く帰って行った。残された由美は夕ご飯を作ってやるからもう
一日泊まってあげると言い出した。私は困っだ顔をあらわにした。
「なぜ困るの?あっ先生、何か変なこと考えているんでしよ。やっだあ」
由美は屈託がなかった。由美は父親といるような無防備さだった。信頼されてい
る喜びに浸るべきか、男としての対象から外されている寂しさを嘆くべきか私は
苦笑した。
高安義郎