貴之と幸恵の夫婦には早とちりが多い。言い間違えや聞き間違えも多く行き違いも多い。
その日もそうだった。貴之がスーパー横の宝くじ売り場へ行きかけると、幸恵がキッチン
から声をかけた。
「お父さん。外に出たついでにタバコ買ってきて」
「幾つだ。それから銘柄は?」声高に聞いた。
「あんな物一つでいいわよ。銘柄はお父さんの好きなのでいいから」
三十分ほどして貴之は帰ってきた。
「今ちょうどピザが焼き上がったところ。今日のお昼はこれよ。で、お父さんの好きなの買ってきてくれた?」
幸恵にいわれ、貴之はタバコをテーブルの上に置いた。
「なによこれ。タバコじゃない」
「そうだよ。おまえが買って来いって言ったじゃないか」
「言うわけないでしょ。私タバスコって言ったのよ」
「いいやおまえは確かにタバコって言った」
「お父さんが聞き間違えたんでしょ。第一私タバコなんか吸わないじゃない」
「変だとは思ったけど、お父さんの好きなのでいいって言ったから、いつも吸ってるやつを買ってきたんだ」
互いに相手の非を強調し、自分が言い間違えたことや聞き間違いかもしれないことを反省などすることはない。
ピザを食べながら貴之は考えた。最近判ったことだが、幸恵は頭の中で考えたことはすでに話したつもりにな
っているらしいと言うことだ。たとえば数日前もそうだった。
「信じられないよねえ、かわいそうに。そうでしょ」
と言ったりするのだ。何のことか判らず黙っていると、
「だから行けって言ったのよ」
と言ってとがめるのだ。
「おまえの言っていることは主語がないからわかんないんだよ」
貴之があきれたように言うと、
「ほら、さっきテレビニュースで言ってたでしょ。子供を虐待して死なせた親のことよ。今テレビで見てたで
しょ」
「見てないよ。今ここに来たばかりだろ」
「私は見てたもの」
自分が見ていたテレビは、皆も見ている気になっているのだ。
「それよりか、だから行けって、どこへ行かせたいんだ」
「耳鼻科よ」
「なんで耳鼻科だ」
「何時も言ってるでしょ。私の言うことがよく分からないって。それ耳が悪いからよ」
幸恵は自分の頭の中で考えたことはすべて相手に伝わっていると思っているのだ。しかも話の順序もめちゃく
ちゃなのだ。そこで貴之は言った。
「人に意見を聞くなり共感を得ようとするなら、何々の事だけどと前置きを置いて、話す相手を惹きつけるよう
に順を追って話すんだよ」
貴之はなるべく穏やかに言ったつもりだった。すると幸恵は、
「だからテレビニュースのことだけどって言ったでしょ」
「それは俺が何の話だって聞いたからだろ」
「だから言ったんだからいいでしょ」
「聞かれる前に言えって言ってるんだ」
「小学校じゃあるまいし、そんな小さいことでいちいち文句を言わないの。我が家は学校でも裁判所でもないの
よ」
妻との問答は幼児との会話のようで貴之はそれ以上何も言いたくなくなった。貴之はふと二十年ほど昔を思い出
した。二人が出会って一年ほどたった頃のことだった。幸恵は山国育ちで、食卓に並ぶ魚はほとんど干物か加工
した魚で、生魚はほとんど見なかったという。そこで貴之は、
「アジ、知ってる?」
ぽつりと聞いた。すると幸恵は、
「やっと言ってくれた。私もよ」
と言ったのだ。始めは何のことか判らなかったが、
「愛、してる」
と聞こえたらしいことに気づいたが、否定するのもはばかられ、それ以上何も言わなかった。そんなことがあっ
て二人は急速に近しくなり結婚したのだったが、そんなことでもなければシャイな貴之は、恋の告白など出来ず
じまいだったに違いない。それを思い出した貴之は思わず、
「たまにはいいか」
小声で呟いた。すると幸恵は、
「何がいいの?」
「タバスコがなくてもさ」
すると
「そうね、やめられるんならやめた方がね」
何の話か分からなかったが貴之は黙ってタバコに火を付けた。すると、
「今タバコやめるって言ったのに」
あきれたように貴之を睨むのだった。


高安義郎