母の手作り花瓶に亀裂ができておりました

長年玄関の出窓に据えられ

出勤する毎朝の僕の目に

一輪の清清しさを見せてくれた花瓶です

慣れきっていた僕の目はそんな野草を

じっくり楽しんだことなどありませんでした


いつひび割れたのでしょうか

記憶がこぼれ出るように水が滴(したた)り

出窓は黒斑病のように黒ずみました

干からびて花は土色になり

手に取れば崩れそうでした

花瓶から脈絡のないきしみが聞こえ

母に代わって挿し入れる水仙の花一輪さえも

支える力はありませんでした


部屋の奥で捜し物をするのでしょう

母の荒いつぶやきが聞こえます

新しい花瓶が欲しいのかと聞けば

花瓶のことなど知らないと言うのです

遠い記憶の更に深い深い記憶を

押入の奥に探してでもいるのでしょうか


記憶を病んだ母の花瓶は

季節を追うことができなくなっておりました

母の姿に心は驚き

僕は初めて自分を振り返ったものでした


干からびた後悔に土気色の悲しみが雪崩れます

玄関口に立つ僕の足は

今日の靴をいっまでも揃えられずにおりました


家庭が崩壊しかけた遠い昔がよぎります

あの時の恐怖こそは感じませんが

取り残された焦燥感が

母を駅に見送ったあの彼方から

蘇(よみがえ)ってくるような朝でした

                           
 (平成十四年一月





                 

花瓶