イヤホーン

高安義郎


 共に還暦を過ぎた光男と良美夫婦に は何の心配事もなかった。一人息子も

独立し他県で暮らしている。

「波風の少ない、平凡な夫婦ですね」

良美が言った。

「そうだな、平凡が一番さ」

光男もかねがねそう思っていた。良美は庭いじりが趣味で、光男は近くの沼

や川で釣りをするのが趣味だった。

「お父さん、今年はテッセンが見事に咲いたわよ」

「そうか、玄関に飾るといいな。ところで今日俺はヘラブナ五匹とコイも釣っ

たぞ」

夕 ゆう 餉 げ の折はいつも互いの趣味の報告をし合うのだった。   
 
ある時、元同僚に誘われ、光男は近くの工場にパートで働くことになった。

良美も公園や施設の庭を手入れするボランティアに誘われ、仲間入りする

ことになった。

「四丁目の公園の薔薇(ばら)、すてきよ」

そう言いながらスマホで撮った花壇の風景を見せながら、

「私が剪定(せんてい) してたらね、班長さんに自分の代わりに班長にな

らないかって言われちゃったの」

「実は俺も社員になって、工員の教育係を頼みたいってさ」

  夕餉のひとときの会話は相変わらず 楽しく続いた。思えばこの夫婦は

喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。毎日のように日々の出来事を話す

習慣が、穏やかな二人にしていたのかも知れない。
 
そんなある日、ボランティア仲間に教えられ、良美はラジオを聞きなが

ら作業をする事を覚えた。小さなラジオをポケットに入れイヤホーンを耳

にすると、道路を行き交う車の音も気にならなくなった。良美の影響で光

男もラジオを購入し聞き始めた。すると二人の話題はラジオで聞いた情報

交換へと変わって行った。

「今朝聞いた、あのコメンテイターの意見、どう思う?」

「先日の『身の上相談』、あれは相談者の我儘(わがまま)だよね」

などとラジオ番組の話題が多くなった。気がつくと二人は家に居てもラジ

オを聞いているようになった。

  やがて二人の会話は少しずつ遠のき 始めた。ノウゼンカズラが咲いたと

か、枝切りを手伝えとかといったかけ合いのような声がめっきり少なくなっ

ていったのだ。

  そんなある休日、光男は、

「おい母さん、もう十二時を過ぎたが昼飯はどうする」

と、声をかけた。だが返事はない。丁度その頃良美も、

「お父さん、そうめんを茹でたいからお鍋に水を入れて火にかけておいて」

と、声高に言った。だが光男の返事はない。三十分ほどして良美が庭から上

がってきた。

「あら、お鍋、かけておいてくれなかったの」

良美は半ば腹立たしげに言うが光男は返事をしない。

「飯はどうするってさっきから言ってるだろ」

光男が声高に言った。だが良美の返事はない。

「どうして返事しないんだ」

光男は更に声高に言った。同時に、

「何が気に入らなくて返事しないの」

良美もついきつい言い方をした。声をかけても、返事がないことに腹をたて

のもつまらないからと、二人は互いに呼びかける回数を減らしていった。 

光男は仕事先の仲間と居酒屋に行くようになり、良美は良美で帰宅の遅く

なった光男を待つのが馬鹿馬鹿しくなって、ボランティア仲間と出歩くこ

とが多くなった。  

  気がつくと夫婦の会話はなくなって いたのだった。どうしても伝えなけ

ればならないことがあると、大声で怒鳴るようになった。普段の声ではイヤ

ホーンを耳にしている二人には聞こえないのだ。かつては『シャクヤクが咲

いたから庭に下りてこい』と誘ったり、『ウグイスが鳴いてるよ』と言って

は二人で耳を澄まし合ったものだが、次第に声をかけることさえ億 劫

(おっくう)になり、夕食も別々に取ることが多くなった。

  寂しい夫婦になった原因に気付くの に二年の歳月が必要だった。良美が

誤ってラジオを水 溜 (みずたまり)に落とし、使えなくなったのがきっか

けだった。

「前にも言ったが、ラジオは家の中ではやめにしないか」

光男が言った。この提案は実は三度目なのだが、良美は初めて聞いた話だか

ら考えておく、と言いながら、新しいラジオを買いに出かけたのだった。

  ラジオが二人の会話に割り込んでいたことに良美はまだ気付いてはいない

様子だった。