長らくお世話になりまして」

挨拶をし母はタオルと歯ブラシを袋に入れました

そして自分の家に連れて行ってくれと言います

「ここが母さんの家ですよ」

思い出の壁のシミを説明しても

心を無くした耳の奥には届きませんでした

 

どの家を自分の家だと言うのでしょう

生家でしょうか

若い頃住んでいた借家のことでしょうか

つい僕も真剣に考えてしまうのでした

そこには誰が待っているのかと聞けば

お腹を空かした子供達がいると言います

「子供はほら 僕ですよ」

顔を突き出します

「ご厄介になりましたねえ」

深々と僕に頭を下げるのでした

根負けし

「判った 帰りましょ 家はどこ?」

どこへ行けば良いのか首を傾げます

「だから僕が息子じゃダメなのかい」

「そんなことはないが順序は順序だから」

母の理屈は不思議な結論にたどりつき

息子は小学生のままでいるらしいのでした

やがて何を思い立つたか座卓に向かい

硯を引き寄せると手紙を書きました

『楽しいひとときを有り難う』

それをこの家の主人に渡せと言うのでした

たくましく生きていた母の時代を飛び越して

時間は際限も無く巻き戻っていくようでした


仕方なく僕は母の手を引き

いつものように表通りを一巡しました

曲がり角で引き返し見上げれば

そこに見慣れた我が家の窓を見つけるのでした

「長いこと空けていたものだねえ」

さっきまで居た縁側に座り

安堵のため息をつくのです


陽がカエデの木に差しかかった昼下がりです

陽だまりの中に座る母の影は

小さな地蔵になって畳に映ります

その静けさが僕の目をうるませます

「今日の日差しが眩しい」と

言い分けをして涙を隠せば

今度は嗚咽(おえつ)が

喉の奥から突き上げて来るのでした

 

 平成14年 2月


                                

暇乞い

高安義郎

(いとまごい