意識と亜意識

              
  
 ドクは鏡を見ながら考えた。

「僕が僕であることは、僕が一番よく知っている。だが鏡に見えているこの僕が

果たして僕が思っている僕なのか」

山之口漠と言う詩人の詩にこれに似た作品があったなと思いながら、自分の中に

自分が意識していない人格があるのだろうかと考えた。もしあるのなら普段はど

うしているのだろう。それはいつか今の自分に入れ替わるようなことはあるのだ

ろうか。

 そんな考えが高じたある日ドクは脳波をオシロスコ−プに映し出した。緑色の

揺れる波形は潜在意識のダンスに思えた。その時ふとひとつの仮説が脳裏に浮か

んだ。

「人間の幼児期の頭脳には人格要素が複数存在しているのではないか。そのうち

のひとつが特別に成長し自我を意識するものになってゆくのかも知れない。他の

意識要素もそれなりに育ち次第に二次的意識になってゆく。これを亜意識と呼ぼ

う。亜意識は少なからず自我の意識を刺激する。時には自我を飛び越えて行動を

することがあるかも知れない。それが無意識の行動ではないか。亜意誠が自我に

抑圧されると夢になって現れるのではあるまいか」

そんな仮説はとっぴなことだと思いながらも、人の憑依現象(ひょういげんしょ

う)や二重人格の病理の一部を解明しているように思えたりした。これを裏づけ

たい好奇心が疼(うず)き始めた。ドクは自分の亜意識を呼び起こし、いわば無

意識の自分を知ってみたいと思ったのである。波形のダンスを分解すれば亜意譲

が観察できるかも知れない。これを表面意識に移し替えれば別の自分を知ること

ができるのではないか。思いつくままドクは機械の改良に取り組んだ。工学系に

弱いドクではあったが、世界の精神医学界にセンセーショナルを巻き起こせるか

も知れない喜びがしきりに情熱をあおったのだ。機械には『亜意識覚醒装置』と

名づけ、飽きもせず改良の日々を送った。

 夢の機械が完成したのは199X年6月1日。ドクはさっそく自分の亜意識を

捜し出し対面しようと考えた。思い立つとすぐ取りかかるのがドクだった。たち

まち髪の毛をそり落とし銀の針の電極をチクリチクリと頭に刺した。捜し当てた

亜意識は思いの他に数が多い。いざ対面となるとドクは少し怖かった。凶悪な自

分だったらどうしよう。ふと見ると微弱なパルスが画面の端に見つかった。これ

ならさしたることもなかろう。まず手始めにこれを意識に移してみようと考えた。

思った以上にパルスは弱く何の異常も意識上には感じなかった。半ばほっとした

丁度その時一匹の蝿が電極に止まった。思わず払うと偶然はあるものだ。はじか

れた蝿は机の上でジンジン羽音を立てていた。好奇心旺盛なドクは蝿の亜意識を

探ろうと思わず電極を刺してみた。その瞬間ドクの体は不思議なほどに身軽に感

じ空を自由に飛べるような錯覚に襲われた。柱にかけられた蝿叩きを見た時はな

ぜか心臓の止まるほどどきりとした。うかつにも自分の頭に電極を刺したまま蝿

とつながってしまったのだ。蝿の神経パルスがドクの神経を刺激した。ドクは手

首をブルブル震わし飛んでいる仕草を始めた。自分自身何をしているか分かって

いながら、どうしても止められない。そのうち窓に近づき、どうしても飛び降り

たい衝動に駆られたのである。こんな所から飛び降りたなら怪我をすると知って

いながらそれでもやはり飛び降りたかった。道路を見ると、街路樹の下に旨(う

ま)そうなケーキが見えた。表面意識が狂人のように叫んだ。

「だめだ、そいつは犬の糞(くそ)だ。いまわしい糞なんだ」しかし頭の一角は

「なめてみたい。口一杯に頬張りたい」

としきりに憧れ、痙攣(けいれん)しながら窓に片足を踏みかけた。その時リー

ド線が伸び切ったのか頭から電極が抜け、ケーキは紛れもない犬の糞に見えたの

だった。額の脂汗を白衣の袖でぬぐったドクは

「亜意識が表面意識に乗り移るのは、夢だけでたくさんだ」

震えながら苦心の装置に布を掛け、二度とスイッチを入れることはなかったので

ある。


                    
〜シリーズ・ドク小泉〜