本の価値
 
                                

     
ある日私は調べ物があり、夕食後庭の隅に建てられている書庫に入った。書庫

  は三方の壁が七段の本棚で囲まれている。本は分野ごとに整理して収納したはず

  だが、いざ必要なものを探そうとすると、意外に手間取り、調べ物はなかなかは

  かどらなかった。はかどらない理由はもう一つあった。若い頃、夢中になって読

  んだ本が出てくると、それを広げて見入ってしまうのだ。子供達が小さいときに

  読んでやった絵本が一番上の棚に並んでいる。長男が喜んだ本が目に入るとまた

  それを広げた。結婚前にさる女性から借りた本が出てきたりもした。今更返すの

  も間の抜けな気がする。デートをした昔を思い出しながらぱらぱらと頁をめくる。

   そうこうしているうちに五時間ほどが経ち、やっと目当ての本を探し当てて書

  庫の中央にある座卓に座った時は、すでに夜中の十二時を過ぎていた。私の調べ

  物は郷土の歴史に関することで、一冊の本ではらちがあかない。周りに置いた本

  をあれこれとひっくり返している内に睡魔に襲われ、私はついうとうとしてしま

  った。

   三十分ほど寝たろうか、人の声で目を覚ました。空耳だったのかもしれない。

  あたりは静まりかえっている。しばらくしてまた居眠りを始めた。やはり人の声

  が聞こえるのだ。今度はゆっくりと顔を上げてみた。

  「起きたらしいぞ」そんな声が聞こえ、また静まりかえった。誰かが私の居眠り

  を見ているのだろうか。あたりを見回したが扉も窓も閉まっており、遮光カーテ

  ンも引かれている。まさかと思いながら、私は寝たふりをしてみた。しばらくす

  るとこそこそ話が聞こえだしたのだ。顔を腕の中に乗せたまま薄目を開けたが誰

  もいない。だが声だけが聞こえてくる。私は寝たふりをして声に耳を傾けた。

  「さっきの続きだがね、物知りと言う点では百科事典が一番さ」

  「いいや、百科事典は広く浅くだ。やはり同じ辞典でも言葉なら日本国語大辞典

  が一番で、生物学なら生物学事典。芸術なら美術年鑑が一番だよ」話をしている

  のは書庫の中の本達のようだった。辞書の棚が少し静かになったころ、手の届き

  ずらい棚から声がした。

  「あんた達ね、知識が多ければ偉いと思っているようだけど、一冊まるまる読み

  通されたことなんかないだろ。その点私のような読み物は最後まで読んで貰える。

  時には涙を流しながら抱きしめてくれたりする。本の価値は、どれだけ人を感

  動させるかだよ。知識なんかでは人の心は動かせないんだ」

  「人の心を動かすんだったら、私のような詩集が一番よ。第一表紙の装丁が凝っ

  ている。それだけ人の心が反映されていると言うことだ」

  「そうじゃないよ。今時詩なんて誰も読みはしない。だからせめて見た目で気を

  引こうとしているのさ。本としては邪道だね」

  「人のことを邪道呼ばわりしているがね、君は株での儲け方とか、書道の手ほど

  きを記した専門書だね」

  「専門書ほど人をたぶらかす本は無いと思うね。そもそも株の儲け方なんかを読

  んで本当に株を儲けた人なんかいやしない。本を読んで書家になれた人なんかも

  いないじゃないか」すると一番上の段にあった絵本が言った。

  「ちょっと静かにしてよ。僕は、この中で誰が一番立派な本なのか教えてって言

  っただけだよ。喧嘩しないでよ」するとこんな声がした。

  「おお、そうだったね。でも話し合いじゃ決着はつきそうにない。ではこうした

  らどうだ。ここに寝ているご主人が目を覚まし、この部屋から出て行くときに手

  にした本が、今日の一番立派な本ということにしては」提案したのはブックエン

  ドだった。

   本達の討論を聞いてしまった私は、何を手にしようか考えてしまった。調べ物

  をそっちのけにして考えあぐね、とうとう朝までうたた寝してしまったのだ。

   母屋の方で妻が戸を開けている音に気づき『変な夢を見たものだ』と思いなが

  ら私は急いで、なぜかそばに落ちていた本を握り書庫を出た。握っていたのは長

  男が小学生時代に書いた、二十年前の絵日記だった。


                  
              


高安義郎