朝の通勤列車に胸を押しつけられながら、春男はビル街をぼんやり眺めていた。狭い車内
は誰もが無言で、車内吊りの広告が風に揺れていた。
春男は夕べの妻の言葉がいつまでも耳の奥に残っていた。部長と酒を飲み十一時過ぎに帰
宅したのだが、妻の律子(りつこ)は珍しく起きており、
「連絡よこさないからご飯そのままよ。いらなかったら自分で捨てて」
律子は缶ビールを片手にテレビを見ながら言った。テレビは対談らしい番組を流していた。
春男は妻の応対を気にするでもなく、
「何の対談だい」
と声をかけた。妻は黙っていた。春男は妻の無反応にも気を留めることなくテレビの声を聞
くとはなしに聞いた。
『男はなぜ上司にごまを擂(す)るんでしょう。実力が伴わないとそんな卑屈な手段に出る
んでしょうか』
『いえ生き残るための辛い選択だと私思うのよ。かつて日本の女性は夫に尽くしたでしょ。
あれも言ってみれば一種のごま擂りじゃないかしら』
そんなコメントが流れてきた。
「そうなのか。ごま擂りってあんたの特権かと思ったら今の男はみんなそうなんか。馬鹿み
たい」
律子が言った。さすがに春男はむっとした。それでも、
「俺はごまなんか擂ってないぞ」静かに言った。
「それじゃ何で部長の言いなりになって毎日毎日酒なんか飲んでくんのよ」
律子は飲んでいたビールの缶をたたきつけるようにテーブルに置くと寝室に立っていった。
新婚旅行の記念に買った日傘が玄関の壁にかかっている。それを見つめながら、
「昔はあんなではなかったが、あれではひどすぎる」
呟(つぶや)いた。だが課長の誘いを断れば断れなくもなかったはずだと思うと、やはり自
分が悪かったのかと思い直そうとした。
「なんだオヤジ遅いじゃん」
大学生の息子が二階から降りてきて言った。
律子の剣幕を聞かれたかと思うと決まりが悪くなり、
「母さん疲れてんだ」
茶漬けをすすりながら言った。
「オヤジ俺関係ないから。言っとくけど二人の老後、俺見られないから。だから、この後二
人して旨(うま)くやってってよ。貯金なんかもしてさ。そうそう、俺の学費無理しなくて
いいから。奨学金制度だってあるし。学資のために老後が苦しくなったなんて言われたくな
いし」
それだけ言うと缶ビールを掴(つか)んで二階に上がっていった。無性に寂しいものを感じ
た。
そんな夕べを思い出しているといつの間にか下車駅だった。ホームの向こうで夫婦らしい
若い男女が手を振り合っているのが見えた。あれはごま擂りだろうか。かつて妻が自分を玄
関の外まで送り出してくれたのも決してごま擂り行為などではなかったはずだ。自分が課長
の意を汲み仕事をスムースに運ぼうとしていることは、いわばひとつの手腕なのだ。
改札口を出ると会社まで十五分ほど歩く。その途中に公園があり、春男はよくこの公園で
休み時間を過ごすことがあった。
公園まで来ると春男は何故か急に立ち止まり、ベンチに座ると一歩も動けなくなった。妻
や息子やテレビの流すコメンテイターの、およそ哲学の欠片(かけら)もないこ小賢(こざか)
しいスピーチが、春男の胸の中で交錯(こうさく)した。春男は独り言をつぶやいた。俺が
毎日頑張っているのは日傘と同じで、家族を世間の日差しから守ろうとする結果じゃないか。
その日傘をごま擂りだと言って侮辱し、働く男を卑下するのはどういうことだ。卑屈な傘な
ら捨ててしまえばいいだろ。そう思うと春男は急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。何を確
かめようとしたのか春男は携帯電話を取り出した。
「土田でございます」妻の声だった。
「俺だけど」すると急に口調が代わり、
「忘れ物なら自分で取りに来なさいよ」
吐き捨てるような声になった。
「違うよ。玄関の日傘、捨てていいか」
「何を寝ぼけたこと言ってんのよ。いいわあんな傘。馬鹿みたい」
電話は切られた。
「日傘の紙は弱いんだ。俺だけじゃ守りきれなかったなあ」
春男は一人呟(つぶや)いた。
その日を境に、春男は家に帰ることはなかった。
行方不明になって既に三年が経ち、日傘は埃(ほこり)をかぶったままである。

