蝶の採集を趣味にしている勝美は、ギフチョウの生息地である岐阜に来ていた。

そこは半年前別れた智子の故郷だった。山間にある小さな町に降り立つと、智子が

そこに待っているような錯覚に囚われた。親子ほども年の離れた彼女が、わずか

でも自分と暮らしてくれたことに感謝していた。

「出て行きたい時はいつでも出ていっていいって言ったわよね。それじゃバイバイ」

智子の悪戯っぽく振った手は、勝美の脳裏で今も揺れていた。三ヶ月ほどして届

いた手紙には「引き止めてくれると思ったのに、少し寂しかった。でも今は年下の

子と幸せに暮らしています。」そんなことが記されていた。

 三十分ほどバスに乗り、登山入り口から一時間ほど歩き、小高い山の中腹にたど

り着いた。見上げる岩山の手前には谷があり、谷底を臨むように一軒の休憩所があ

った。夏の登山シーズン以外は休業らしく、店の扉は固く閉ざされていた。近くに

あったベンチに荷物を置き遅い昼食を取っていると、一頭の蝶が目の前を通り過ぎ

た。勝美は急いで捕虫網を組み立て、ベルトにつけた三角管を確かめると蝶の舞い

戻るのを待った。昼食を済ませた時、先程の蝶だろうか再び飛来した。ギフチョウ

だった。勝美は捕虫網を差し出し捕えようとすると、蝶は斜め上空にすり抜けたま

ま、二度と現れることはなかった。

 いばらくして勝美は谷川へ下りてみようと考えた。谷川に吸水に来る蝶の中から

ギフチョウを捜すことにしたのだ。谷川を臨む断崖の角からかろうじて下りられそ

うだった。道らしい道などない雑木の間を勝美は一歩一歩下りた。蔦や小枝を掴み

ながら、時折飛んでくる蝶の先を遮るように網を動かした。足下にはカンアオイが

芽吹き始めていた。春の息吹が勝美の体全体を覆い、若竹をかち割ったような香り

を放っていた。

 一時間ほど歩くと谷川の音が小気味よく響き始めた。大きな岩が見え始めた時だっ

た。いきなり砂ぼこりのようなすさまじさで、白い塊が雪崩れるのを見た。目を

凝らすとそれはおびただしい数の蝶の群れだった。何万とも知れない蝶がちょうど

人の姿のように立ち上がった。女神を想起した。ギフチョウの群れだろうか。確か

めようと身を乗り出したその瞬間、掴んでいた蔓が切れ、あっと言う間に勝美は谷

川へ転落していった。

 片足を水に浸して倒れていた勝美は、やがて冷たさで我に返り、痛む足を引きず

りながら辺りを見回した。せせらぎの音が耳をかすめ、目のまえはただキラキラと

輝いていた。投げ出された捕虫網に気付き、必死に手を伸ばそうとした時だった。

「ここから出して」か細い声が聞こえた。見ると中には、半透明の蝶の羽をつけた

小指ほどの少女が入っていたのだ。「これは蝶の妖精だ」そう直感した勝美は言葉

を無くした。全裸のその妖精は身を隠そうともせず勝美に呼びかけている。ふと、

瑞々しい智子の白い肌が思い出された。妖精の顔は別れたあの日の悲しげな智子の

顔そのままだった。「私をここから出して。その代わりあなたに何でもさしあげる

わ」妖精は川原の石を宝石にしてあげると言った。永遠の若さをあげることもでき

る、とも言った。「それがお嫌いなら、あなたの為に一日舞います。私達の舞を見

る人は、人族ではあなたが始めて」勝美はそれでも黙っていた。落ち着きを取り戻

すと「きみは僕のものでいてほしい」同じ悔いを残したくない心が呟いた。「そん

なことできないわ。私の息に触れたら生きていられないもの」勝美は何もいらなか

った。必死に網をたぐり寄せ妖精の羽根の付け根をそっとつまんだ。妖精は悲鳴の

息を吐きかけた。悲鳴はホトトギスの声に似ていた。辺りには春の香りが広がった。

「春の香りは妖精の吐息だったのか」勝美は至福に酔いながら目を閉じた。

 谷川に転落し、病院で死んだ男の記事が地元の新聞に載ったのは、それから二日

後のことだった。

     
                          
春の香り
高安義郎