

良介は母と子の二人暮らしだった。父親は小さな会社を経営していたが、良介
が小学生の頃倒産し借金を作って蒸発してしまった。父を好いていた良介はいつ
か父に会えることを期待しながらも、そのことを話題にしたことはなかった。
良介が高校三年生になったとき学校で三者面談があった。話題は卒業後の進路
についてであった。母親に負担を掛けまいと考えた良介は
「勉強は飽きたから就職します」
そう担任の前できっぱり言った。その日の夕方、母親は良介に詫びた。
「成績の良いお前が勉強に飽きるはずないのに。お金のことが心配だったんだろ。
ご免んね。でも高卒だってコツコツ頑張れば出世できるから。それに何時だって
勉強は始められるから。警察のやっかいになるようなつまずきだけはするんじゃ
ないよ」
この言葉に良介は「ああ」と返事をしたものの、ふと警察にやっかいになること
とはどれほどの悪さを言うのか考えた。考えている内に手錠を掛けられる感触は
どんなものだろうかと考え、更に刑務所とはどんな所か、時代劇で見るような牢
名主がいるのだろうか。そんなことを考えると頭の中は刑務所の事で一杯になっ
た。思い立つと何でも試したくなる良介は刑務所の中を見てみたい衝動にかられ
た。
良介の住むとなり町には刑務所があった。子供の頃
「ここはなあに?」と聞くと
母親は決まって
「知らない」と答えた所だ。
行ってみてよう。良介は自転車に飛び乗った。三十分ほどでいかめしい鉄のゲー
トが見えてきた。ゲートの前に行くと門の脇に『矯正展・即売』の張り紙があっ
た。即売会ならば自分も入れるかも知れない。鉄格子の近くに人がいた。
「すみません、矯正展、誰でも入れるんですか」
聞くと、
「え?俺?ああ、タンスやソファーなんかの家具や、味噌も売るよ。外より安い
よ。明日からね」
門の内側で草を取っていた男が答えた。
「口を効いてはいかん」
影から出てきた紺の制服を着た監視員が声高に言った。男はヘコヘコと何度も頭
を下げながら視界から消えていった。男は囚人の一人だったのだ。そこの刑務所
は刑期十五年や二十年といった重罪犯が収容されていると、いつであったか仲間
から聞いたことがあったが、その男はさほど悪そうな人間には見えなかった。監
視員に注意され、すごすごと消えていった姿が妙に脳裏に残った。
その夜良介は考えた。あの男はどんな罪を犯したのだろう。借金がらみの殺人
だろうか。あの人にも親や子供がいるのではないか。そんなことを考えている内
に、それは小学生の時にいなくなった父親ではないかと思うようになった。調べ
る方法はないものだろうか。警察の内部の人間ならば容易に知ることが出来るだ
ろう。そう思うと良介は警察官になりたいと思った。思い立つと矢も立てもいら
れなくなり、翌朝母親に言った。
「お袋。俺、就職するって言ったけど警官になりてえ。警官ならそんなに金はか
からねえし」
すると母親は内心『目標をふらつかせてはだめだ』そう思いながらつい、
「ああいいよ」
と返事をしたのだった。
数ケ月後学校から帰ると良介は、
「俺、裁判官になりてえ」と言いだした。
すると母親は物わかりの良い親を演じたのか「いいよ」と笑顔で返事をした。さ
らに数ヶ月後、「弁護士になりたい」と言うと
母親はまた「あいよ」と答えたのだ。
そうして卒業間近になった頃、
「お袋、俺また進路が変わりそうだから、とりあえず学資を貯めるために自由の
効くバイトをするよ」
と言った。母親は何かを言いかけたが、「そうかい」としか言えなかった。
それから十五年経つが、良介はいまだ定職に就かずフリーターをして暮らしてい
る。むろん金も貯まっていない。母は二年前に他界したが、死の間際に
「ご免ね。あたしのいつの返事がお前を迷わせたんだろうね」
そう言い残して逝った。良介は、母が死の間際でなぜ自分に謝ったのか分からず、
それを知りたくて今度は心理学を学ぼうかと、迷いだしたのだった。
