母 の 螢

高安義郎


「昨夜は廊下を一晩中走っていました」

介護員からそんな報告を聞きました

「お義母さん眠たいでしょう」妻が言いました

「忙しいからねえ大変なんだよ」

母の心は眠れないほど忙しいようでした

大事な仕事に今も関わっているかのようです

談話室から歌声が聞こえてきました

「お義母さんも螢の宿を歌おうか」

「オルガンが苦手でねえ」

「でも教えて貰ったんだよね」

母の目に螢の群れが現れたのでしょうか

「川の形に光っているよ」

指さしながら妻と一緒に歌います

螢の群が小川に添って遠く続いているようでした

僕も少年の頃に見た母の生家の光景を

その指先に感じていました

歌い終わると疲れて母は目をつむります

螢の雪崩れる夢の中にいるのでしょうか

寝顔が笑ったようでした

「螢の夢でも見ているのかな」

何気ない僕の言葉に

「良かったねお義母さん」

妻は声を掛けました

僕の目から螢の川に夜霧の露がにじみます

子供を寝かせつけるように

妻は母の背をさすっていました

さすりながら小声で歌を歌っていました

赤子をあやすような笑顔の頬には

涙の跡が光っていました

僕の母を妻は泣いてくれたのでした

施設からの帰りです

「お義母さんと三十一年暮したのだわ」

妻がポツリと言いました

僕の知らない母の青春の思い出を

からくり細工を開けるように話すのでした

訓導になったばかりの若い頃です

不得手であったオルガンを

音楽科出の青年教師に教わったのだと

そんな母の初恋を

僕は妻から聞いたのでした

 

                      平成144