我が輩はアパートである。名は『三号』。これまでに独り者を二十年、若夫

 婦を二十五年、そして今入居している未婚のカップル二ヶ月の四十五年と二ヶ

 月。実に多くの人を守ってきた我が輩である。

  最近大家の小母さんは冷たい眼で我が輩を見つめ、一人言を言うのだ。

 「値上げしたくともこれじゃあね、立て直そうかしら」

 そんなことをほざくのだ。古いアパートにはそれなりの歴史があり、不具合が

 出てきたらそれなりに手当をすれば、我が輩だってあと五十年は持つだろうに、

 目先の欲で簡単に壊そうとするのは人間の欲だ。だが、我が輩の思いなど大家

 には通じない。

  そんなある日、今入居している若い男女が玄関口でなにやらもめ始めた。

 「あんたと一緒に居ても何も希望が持てないのよ。もう終わりね」

 女のヒステリックな声がした。我が輩はこんな我が儘な人間など守ってやりた

 くはないのだが、少々壊れ掛かった我が輩を借りようとする人が少なくなって、

 実は半年ほど空いていたのだ。そこへやって来たのがこの二人だったのだ。

  二ヶ月この二人を見てきたが、我が輩に言わせればこんな生き方をする人間

 は謂わば野良犬と同じで.家なんかいらないだろ。

  そもそも我が輩の扱いがぞんざいすぎる。部屋中に塵を散らかし、食器はそ

 のままで一週間も汚れた皿をシンクに放り投げたままでいる。今じゃゴキブリ

 とか言う新住民まで引き入れているしまつ。我が輩は最初、ゴキブリは二人の

 仲間なのかと思っていたが、奴の姿を見ると女は悲鳴を上げるのだ。悲鳴の後

 でひどいことを言いやがる。

 「このアパートゴキブリ屋敷じゃないの。もっと良い所はなかったの」

 とんでもない濡れ衣だ。自分らが勝手に食い残しを放って置くから、ゴキブリ

 は招待されたと思い込んでいるんじゃないか。

  こんな生活をする奴らは早晩別れるだろうと思っていたが案の定、女はこの

 日出て行ったのだ。

  こんないい加減な生活をする奴を守ってやる気になれず、大家に我が輩を壊

 してくれと直訴したくなってきた。

  女が出て行って一月ほどしたある日、男が大家となにやら話しをしていた。

 「絵里が出て行ったのはこの部屋がぼろいからだよ」

 「何言ってるんだい。雄一がしっかりしないからじゃないか」

 女の名が絵里で男は雄一だとこの時知った。

 「だってね母さん。俺の好きな仕事が見つからないんだもん」

 二人は親子だったのだ。そんな馬鹿息子勘当しろ、と我が輩は言いたかった。

 「建て直せばきっと絵里も帰ってくるよ」

 「それじゃ建て直してみるかねえ」

 「そしたら俺も働くさ」

 どっちが先か考えてみろ、と我が輩は言いたかった。

  ぐうたら息子のためにアパートを建て直したって、息子のぐうたらは直りゃ

 しないぞ。

  そんな話があって二ケ月程が経ったが、まだ仕事が見つからない。気にいっ

 た仕事がないとほざくのだ。

  日本に何人の人がいるのか知らないが、気にいった仕事に就いている人なん

 かほとんど居ないぞ。我が輩は呆れてしまった。

  そんなある日、絵里がひょっこり帰ってきたのだ。

 「まだゴキブリと暮らしてるんだ。アタイねニワトリと暮らすことにしたわ」

 どういう意味なのか我が輩は耳を澄ました。

 「今日の様子で本当に出て行くことにしたわ。アタイの物を皆持って行くね。

 これで本当にサヨナラだね」

  絵里は小さな鞄を手にした。

 「ちょっと待てよ。俺だってやる気が出たから明日から仕事を探すよ。このア

 パートを親が建て直すから、また一緒に暮らそうよ」

 雄一は半べそをかきながら言った。

 「仕事を探すって、何回聞いたと思う?三十回だよ。今付き合ってる五郎さん

 はね、養鶏場を始めるって言って、その日のうちに設計図を書き出したよ。鶏

 小屋にゴキブリが来ないようにって言ってさ。ゴキブリは甘やかす人の居る所

 に住み着くんだね」

  それを聞いて我が輩は、子供を駄目にするのは母親なのかも知れないと思っ

 た。

 我が輩はゴキブリに聞いたのだが、ぬるま湯の家が大好物とのことだった。
 



                      
ゴキブリとアパート

高安義郎