詩集 「むかしむかし」 
     食うものが三月なくてしかたなく

     姉と弟はげんげを摘みに野へいった

     げんげのおしたしを作る為におかあといった

     おかあは小川が光ると言っては涙を流し

     野の花が美しいと言ってまた泣いた

     おかあを見ては やたらに弟は笑っていたが

     姉は弟の手を握って放さない

     ―――手が痛い と弟はおかあを呼んで言いつけた

     ―――放してやれ おかあが言った


     三人はふたとき程も歩き続けて

     見知らぬ谷を二つ渡った

     ―――手を放すな とおかあは言った

     げんげの原が一面に現れた

     ―――手を放せ おかあは言って泣き伏した

     弟は姉の腕にしがみついておかあを見据えた

     ―――手を放すでねえ とおかあは言った

     ―――昼めし たんと食えや

     おかあは小さな握り飯を二つ出した

     弟は久しぶりの米のめしだと喜んで食った

     姉は半分おかあにやったがおかあは食わない

     姉も食わずに食い足りない眼の弟にやった


     三人はげんげを摘んだ

     ―――ほんまにこれが食えるのかや 弟が言った

     ―――こんなもん食えん と姉が言った

     ―――食えるげんげはもっと遠くだ とおかあが言った

     姉は弟をひとつにらんでから手を引いた


     ずんずん野を渡って

     三人は三つの山を越した

     陽はすっかり傾いた

     おかあはいきなり

     腹を抱えてうずくまった

     ―――おっかあが おっかあが と弟は脅えて泣いた

     ―――泣くでねえ ええだから泣くでねえ

     弟を宥(なだめ)て姉はおかあを抱き起こした

     おかあは顔を草の青にして

     腸のちぎれたような声を出して泣きながら

     ―――おっかあはもう助からねえだで二人で帰れ

         今来た道の反対がわには

         村へ出る近道があるだで

         本当だと思って行っちくれ

         たのむだからおっかあを置いて行っちくれ

     おかあは気狂いじみてまた叫んだ

     ―――後生だであっちの道ば行っちくれ

     おっかあも必ず後から会いに行くだで

     おっかあを置いてはいけね と弟は泣いた

     ―――オラ家のためだで近道して行っちくろ

     おかあはうめく声で言いしぼった

     姉は黙って弟の手を握ると歩き出した

     月が凍って上り出す

     紫の空に星がひとつ歯のように白い

     姉は弟の口をおさえて始めて泣いた

     ―――おっかあ近道して行くからな

     ―――迎えにはこんからな

     姉の声は夕暮れ深い山々にこだました

     げんげの原はどこにも無かった

     風に笹が蠢(うごめ)いて

     黒ずんだ夜が湧いて出た

     夜の中を霧はさまよった

     ―――おさとよう

     山の彼方で声が微かに人を呼んだようだった
  



                    
  
高安義郎