高安義郎
良一は太郎池が埋められてゆくのを眺めながら、これまでの来し方に思いをは
せた。
良一の家は代々続く農家で、言い伝えでは先祖は平家の落ち武者だと言う。母
はそこの一人娘であった。良一が高校を卒業した年、働く為だけに婿入りしたよ
うな父がで急逝し、仕方なく進学を諦めて農家を継いだのだった。
そんな境遇の中でも母は気丈に振る舞い、黙々と働いた。落人を祖先に持つという
言い伝えが、母の生きる支えだったようだが、良一には落ち武者と農家との結びつ
きが理解できなかった。
良一は、父が生前蒐集していた軸物を鑑賞するのが楽しみだった。気にいった
数本は天袋に入れ、雨の降る日などはよく眺めたものだった。
軸の中に数十羽の雁が鍵形になり、秋の夕暮れ空を横切る水墨画があった。良
一はこの絵が気に入っていた。子供の頃父に手を引かれ、見上げた雁の姿を思い
出させてくれるからだった。
「あの雁たちはシベリアと言う所から来たんだぞ」
父の声が甦ってくるのだ。
「雁はどこへ、何をしに行くの?」
「北の国では冬になると食べ物がなくなる。その間だけ遠い日本にやって来るの
さ」
「こんな遠くまで来なくてもいいのに」
「命を繋(つな)ぐってことは遊びじゃないんだ。我が家の裏の太郎池にも毎年
何羽か来るが、春になると、また北へ帰って行くんだ」
「ずっと日本に居れば楽なのに。雁の目的ってなんだろうね」
「楽に暮らすことが目的じゃないんだよ。きっとね」
子供の頃の父との会話を、掛け軸の雁の群れが思い出させるのだった。
良一が三十歳の時、世話をする人があり結婚し、一男一女の子供が生まれた。
これといった大きな出来事もないまま、二人の子供も成人し、長女の惠梨は隣町
に嫁いでいった。
歳月は十年一日のごとく過ぎ去り、いつの間にか六十の歳を迎え、何もなかった
人生にふと虚しさを感じた。
「俺の人生は何が目的だったのだろうか。雁の目的って何なのだろう」
そんなことを考えることが多くなった。目的もないまま生きてきた自分が無意味
で無能な人生を生きたように思えてならなかった。
母親が亡くなり一周忌が過ぎた頃、都市計画の一環で太郎池を埋めるようにと
の要請があった。太郎池をなくすことは、良一にとって父を忘れろと言われてい
るように思えたのだが、町の発展を考えると無碍(むげ)に反対は出来なかった。
翌年、それは父が死んで四十年目のことだった。その年の初夏に埋め立てが始
まったのだ。
良一は仕事の野良仕事の手を止め、ブルドーザーが容赦なく土砂を太郎池に押
し込む様子を毎日ながめ続けた。
やがて池がすっかり埋めつくされ、昔の面影がまったくなくなった頃ちょっと
した異変が起こった。良一の姿が忽然(こつぜん)と消えたのだ。無断で外泊
などしたことのない良一を、子供達は血まなこになって探した。良一らしい人が
鞄を提げて駅に居たと言う人もいたが、行方はようとしてわからなかった。池
の埋め立てを見ていたから、何かの弾みで下敷きになってしまったのではない
か。そんな噂まで飛び出し、果てには
『人生の目的が分からないなんて言ってから、いい人ができて一緒にいるんで
しょ』口さがない人からはそんな誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)まで飛び出し
た。そんな中でも妻は、『きっと帰って来るから』と、さほどうろたえる様子も
なかった。
ほどたったある日、一通の手紙が妻に届いた。
「父を亡くした時も母が強く生きられたのは、平家の落人は関係なかったみたい
だ。ただただ子孫を繋げることが目的だったんだと、今になって分かった気がす
る。雁のふるさとを訪ねれば親父さんに会える気がして、シベリアのバイカル湖
まで来てしまったが、ここには無数の雁がいる。そして沢山の雛がここで生まれ
るそうだ。雁の目的が分かった気がする。生きる事は子孫を繋げることらしい。
今まで気づかなかったが俺の百姓仕事も楽に生きるのが目的だったんじゃない
んだ。惠梨の子供を早く見たいものだ。明日帰る」良一からの手紙だった。