九州の支社に異動の決まつた悦子は自ら送別会を開き、部下の主だった男たちを
呼んだ。会場に着くとまだ誰も来てはいなかった。
「あいつら相変わらず仕事が遅いんだよなあ」
そんな独り言を言いながら、出がけに郵便受けから取り出してきた良子からの手紙を
広げた。良子は高校時代からの同級生で悦子とは手紙のやりとりをよくしていた。
良子にとって悦子の生き方は新鮮だった。良子は悦子を洗練された現代女性の象徴
として見つめ、その悦子と手紙をやりとりすることで自分が現代女性の一人でいられ
るような錯覚を味わっていた。逆に悦子は平凡な生活に甘んじる良子の手紙で、自分
がどれほど平凡な女と遠い所にいるのかを確かめる指針にしていた。日本の女性史に
なかったような生き方をすることが、悦子にとって最も自分に相応しいものだった。
二十人のちを部下に持ち、男たちに慕われている今の職場は、まさに悦子の理想だっ
た。
良子の手紙はかって悦子の言った言葉から書き出されていた。
「私が結婚した時、悦子が言ったわね。『ご主人に、うんと幸せにしてもらえって』
もう忘れたでしょうけれど。本当に私のことを思ってくれているんだなってあの時思
ったわ」
悦子は思い出した。それは決して良子を心の底から祝福しての言葉ではなかった。
「あいかわらず馬鹿ね」
悦子は手紙を読みながら眩いた。男に幸せにしてもらうということは女の人格を放棄
したことになるではないか。それはペットと何も変わりはしない。日本の歴史は男が
女の幸せを左右してきた。これからは女によって男の幸不幸を左右すべきだ。そんな
時代がしばらく続き、初めて、歴史的 バランスが取れる。それが悦子の考えだった。
それも分からないでいる良子だから「幸せにしてもらえ」と言ったのだ。確かにそれ
は体裁の良い和菓子のような言葉だが、中には侮蔑の焔が詰まっていたのだ。
主人と婦人という、言葉も悦子は嫌った。女は奴隷ではないのだから主人はいない
婦人と言う文字は.箒を持つ女の意味で、社会から離された存在だとも考えた。悦子が
「あなたのご主人は…」と手紙に書く時「あなたは奴隷よ」と念を押す意味であり
「主婦業は板についたかしら…」と書く時は「社会を知らない家鼠になり切ったかし
ら」
と言う意味を込めた。悦子には世の男性たちに女の力を思いを知らせるのが生き甲斐
だった。結婚し、たとえ自分が浮気をしても、相手にとやかく言わせないだけの甲斐
性のある女でありたい。それが悦子の言う目覚めた女性像だった。今、彼女が独身な
のは、面倒の見甲斐のある男がまだ見当たらないからだった。
悦子のバツグから「乙女の祈り」の曲が流れた。携帯電話の呼び出し音だ。悦子は
なぜかこの曲が好きだった。電話の相手は送別会に来るはずの部下からだった。
「課長。今日喜んで出席させていただく予定でしたが叔母が危篤になりまして… 」
「あら小林君が来なけりゃ寂しいじゃない」
電話は切れた。隣の部屋の賑やかさが悦子の心を虚しくさせた。また電話があった。
川本と清原が送別会の出席を断ってきたのだ。
「男心と秋の空か。恩知らずな奴等だ」
悦子は独り言を言いながら手紙の続きを読んだ。
「暮れに結婚二十五周年の旅行を二泊ほどで行ってきました。良い思い出になりま
した。主人の会社は今年になって倒産し、代わりに私が今働いてます。主人は今ま
で私が出ていた所でパートをしています。息子もこの春大学を卒業しますが、良い
春になるように皆で頑張っています」



