詩集 次元鏡
高安義郎
通い慣れた裏通りの中庭に
見慣れないマンホールが蓋を開けていた
あぶなげに覗きこんでみることにした
真暗な中に悪臭がして
こだまを丸呑みにしているのだと思ったが
底の彼方に青空があり
風に木々の緑の雫を落としたりしていたのだ
私の立った真下には
私によく似た男が立って
やはりこちらを見上げてしきりに驚いている
------私のようなあなたは私か と問えば
------まさか私があなたのわけはない と言う
マンホールの中には何があるのかと聞いた
すると、マンホールの中はそちらだと言う
不思議に誘われ
いささか躊躇の触覚を震わせて中に入った
男もこわごわマンホールから出て入れ替わる
中と外とはそっくりな世界で
赤ちょうちんの隣に古びたパチンコ屋
その数軒向こうが我が家のはずだ
いつものコースを寄り道して帰る
ペンキのはがれ始めた我が家に首を入れると
妻と子供二人にそっくりな
しかしニュアンスのちょっ違う三人が
黙ってこちらを一瞥して゛お帰り"とも言わない
パチンコで取ったチョコレートを出すと
------喜びの対称を見ればすなわち人生のレベルが知れる
大きい方の子供が女と目くばせして言った
実になまいきだ
女が茶を出してきて欠伸をした
------ありがとう いただきます
奇妙な気持ちでお礼を言うと
------他人行儀は知性の背伸びですってよ
女もなまいきな目付きをした
ちょっとばかり色っぽく思えた
私とあなたは実は他人ですと言い出しずらく
ましてマンホールの説明はこの場に似つかわしくなかった
亭主気取りで今日一日居据わろうと考えた
それがもっとも自然なことに思えもしたのだ
そのうち電話がかかって
女の妹の引越しが決まったらしい
私の都合も聞きもせず朝早く手伝いに行けと言う
明日は会社の仲間とゴルフだがかまいはしない
朝のうちにマンホールの世界とはお別れだ
そうこうする間に女がやかましくがなる
子供の宿題を見てやれ と二階から
鍋の蓋を取ってかき回せ とベランダから
風呂が沸いたらすぐ入ってしまえ と
アイロン台の向こうで赤ら顔を光らせる
しかも太った猫の無神経そうな鳴き声もして
喧騒が食器棚の中に入って地震のようだ
急に 妻子が恋しくなり
あのマンホールのある舗道に走った
土曜の午後はすっかり暮れ
三つ四つの星が出ていた
月が狸の腹のように丸い
マンホールは開いていた
飛びこもうとするとあの男が現れ
しばらくこのままにしてくれと言ってきた
奥さんは用事を頼むにも
すいませんとひとこといって微笑むし
子供たちも快い高さの声でかわいく笑うから と
それはそうだ
私の妻はそういう女性だから嫁にしたのだ
お前はマンホールの女の所へ早く帰れ
ところがこの男
どんどん駆け逃げて私の家へ飛びこむと
鍵をかけてしまったのだ
一晩中外のいるわけにもゆかず
隣の家に相談するのも間抜けな話だ
明日出直つもりでマンホールの家に帰った
------夕飯時どこへいったの かたつかなくて
こまるでしょ 少しは協力してよ
妻に顔の輪郭だけ似せて
子供にならともかく主のこの私に怒鳴るのである
家にいる者には土曜も日曜もないから
肩がこって腰が痛くて眩暈がすると言う
妻にはついぞやったことがない肩もみと
女らしさのかけらもない腰のマッサージを
丁寧に丁寧にしてやった
子供等は夕食の後だというのに菓子を食い
ファミコンのテレビゲームに熱中している
一晩だけのことと思えば
私もよい経験をしたと慰められもした
ところが
ところがどうだ
あの男の仕業に違いない
マンホールの蓋はきつく塞がれている
それだけならまだしものこと
どんな世のどんな摂理によるものか
この穴は少しずつ小さくなってゆくではないか
か細い人生は自分の家族と送るものだ
私があらゆる道具を持ち出して
元の世界へ帰ろうとした
しかしやがて時を戻すよりほかに
マンホールを開ける術のないことを知った
あれから十年たったろう
あの男の気の変わるのを待ちながら
私は毎日このあたりに来ては手を合わすのだ
今では手札版の写真ほどに縮んだ蓋を見つめては
風の吹く日
雨の降り続く日曜日など特に
置いてきた妻や子供の名を
呼んでみたりするのである