


“ドク"ことドクター小泉はさる予備校の講師だった。だがそれは世を忍ぶ
仮の姿で、実は世界的な大発明家ならんことを夢見る夢想家であり、自称
天才科学者なのである。
ドクは五年前ある薬品を完成させた。その薬品はAとBの二剤を混ぜると
凝固が始まり約二週間で反応が止まる。凝固は空気の振動に左右され凝固速
度に変化を生じる。変化の様子を解析するとそこに人の声が再生できた。こ
の薬品を千円札に塗りつけておき、金に振り回されている人間世界の実態が
見つめられる。あるいは汚職などの密談が聞き出せたなら大いに社会に貢献
できると考えた。アイディアは良かったが千円札の回収方法に苦慮させられ
た。発信機を取り付ける訳にも行かない。思いついたのは「この札を五千円
と交換します」と札の隅に書くことだった。だが二週間後に字が浮き出なけ
れば意味がない。特殊インクの発明がポイントになった。空中の酸素の酸化
や人の汗での発色反応。塵や湿度や二酸化炭素との反応による発色法はどう
だろう。さんざん失敗したある日、机の上の塵をヒントに色を持った菌糸で
浮き上がらせることを思いついた。その為の黴と培地を考案するのに月日が
かかった。ようやく空中の湿度を吸って繁殖できる黴の新種ができたのは、
研究開始から五年後のことだった。
実験も成功し興奮しながらドクは千円札に薬品を塗り、札の隅には培養液
で、五千円の交換先を書き込んだ。その札はまず手始めに、細君の目のつく
所に置いてみた。
果たして二週間の時間は流れた。いつ電話がかかって来るか気が気ではな
かった。だが四週間しても何の連絡もなかったのである。そんなある日、五
歳にる娘の折り紙入れの箱の中からあの札を見つけたのである。娘の近くに
置いたことを後悔しながら、それでも内心ワクワクいながら音の再生を試み
た。声がした。成功だった。耳を澄ますと期待の我が家の日常会話が流れ込
んだ。「早くお風呂に入ってください。」「新聞読みながらご飯食べないで
下さい」「ベランダの修理まだですか」「ごみ収集車が来ていますよ」「起
こしたらすぐに起きて下さい」「酔っていつまでも歌を歌わないで」「バカ
な研究などせずに仕事に遅れないで下さいね」細君の言葉の多さには驚いた。
思えばいつも言われている言葉である。それに混じって「分かったよ」
「そうするよ」存在性の希薄な自分の声も聞こえた。無性に哀れに思えた。
その後、巷にばらまいた千円札が十枚程度回収された。社会に渦巻く陰謀
が聞こえると思うと興奮を禁じえなかった。じっと耳を傾けた。とこがであ
る。聞こえて来るのはどれも自分の家によく似たものばかり。時折騒々しい
音楽と金属音が聞こえるが、パチンコ屋らしい。秘密めいた談合や大事件の
証拠になりそうな話などひとつもありはしなかった。「金のために人間は
あくせく働いているくせに、なぜ生々しい人間模様を見せないのだろう」
ドクはがっかりした。人間は皆一様につまらない時間を過ごしているように
思われた。しかも金」そのものは、平凡な生活を単に回転させているだけの
いわばゼンマイの役目でしかないことに気付かされたのだ。研究に費やした
五年の月日はそんなことを知るために供せられたのだろうか。虚しいものが
胸を塞いだ。そこへ娘がやって来た。
「パパ。ママがね、もういいかげんにしてご飯にしてくださいって」娘の声
は鈴のように爽やかに響いた。そういえばこの研究を始めたのは、この子の
産まれた年だった。思い出しながらドクはうつろな眼で娘を見つめた。「パ
パ泣きそうな顔している。大事な研究は寂しいものなのよね。だから泣いて
るの」意味など分からないまま、日頃ドクのこぼす口癖を娘が真似て言った。
慰められたように思えたが、実際につまらない研究だっただけに寂しさが、
ドクを一層辛くさせた。透き間風に秋の気配を感じながらドクは娘を抱き上
げた。

