「バロンは幸せか」頭をなぜながら良平が言った。バロンは良平が可愛がっている犬

である。生後ひと月くらいの頃良平の家にもら貰われてきたのだが、兄弟のいない良平

はバロンを弟のように可愛がった。

 バロンは利口な犬で、良平の言う言葉はほとんど理解した。だが『幸せ』という言葉

だけは意味が分からず、「幸せか」と聞かれると悲しそうな声を出し、良平の足下にう

ずくまるだけだった。

 ある時バロンは隣の庭先にいたリトリーバーのブースケに犬語で話しかけた。

『幸せってなんだか知ってるかい?』するとブースケは、

『そんなもの食ったことがねえ』吠えながら言った。

『食べ物なの』と聞くと、

『分からん。ただうちの主がよくフリスビーを投げて遊んだ後で菓子をくれて幸せだろ

って言ってるから遊び道具かもな』

『遊び道具?』

『いや。この小屋を造り終えた時主人は、お前は幸せな奴だなって言ってから住みか処

のことかも』

『どっちなのさ』

『わからん。きっと、飼い主が勝手に思うことだろ』

『飼い主が思うこと?』そんな話しをしている所に野良猫が通りかかって言った。

『あんたらはバカじゃないの?人間なんかに食べ物を貰って、遊んでもら貰って、おま

けに巣箱まで作ってもらってさ』

『なんだお前は泥棒猫じゃねえか。この前チーズを盗んで鍋を投げつけられていたなあ』

『それがどうしたのよ。あたいは鍋なんかよけて、チーズを腹一杯食べたわ。自分の食

いぶちは自分でゲットする。住み処は自分で作る。これが何万年も続いているあたい達

生き物の自然の生き方よ。あんたらを見ていると、ベッドに寝かされて点滴でやっと生

きている病人みたい』バロンは野良猫の言っていることが分からなかった。

『あいつの言っていること分かるかい』ブースケに聞くと、

『あんな泥棒猫の理屈なんか聞く耳はないさ』

そう言って小屋の中に潜(もぐ)ってしまった。バロンは家の中で飼われている座敷犬

で、ブースケのような犬小屋が不思議でならなかった。僕には犬小屋がない。これが不

幸というものだろうか。それに毎日同じドックフードを食べさせられている。これも不

幸なのかも知れない。あの猫のように好きな所に出かけて仲間と遊んだり喧嘩したりも

できない。僕はやはり不幸なのかも知れない。そう思うと急に悲しくなってきた。悲し

いま一生を終えるのは嫌だ。そう思ったバロンはある春の朝、良平の家を出ることにし

たのだった。

 こっそり家を出て一週間が経った。食べ物はどこにもない。一軒のコンビニエンスス

トアーの裏のゴミ箱をあさっていると、店員が出て来て石を投げつけてきた。悲鳴を上

げてかけ出すと、キーという脳天をつらぬ貫くような音がして車が止まった。敷かれそ

うになったのだ。すたこらその場を後にし河川敷に来ると、フリスビーを投げて貰い遊

んでいる小犬がいた。近づいてゆくと、

「狂犬だといけねえな、あっちへ行け」

と追い払われた。仕方なくとぼとぼ歩いていると誰かの食べ残した弁当があった。

バロンは鼻面(はなづら)を突っ込んで食いかけの肉団子を食べた。久し振りに食べる

ご飯は美味(おい)しかった。

『これが幸せというものかな』

そう思ったのも束の間今日の寝場所が決まらない。やがて雨が降り出した。

『雨に濡れることは幸せなのかなあ。幸せでなきゃあ不幸なのかなあ』

そんなことをバロンはつぶやいた。

 春の雨は三日も降り続いた。お腹が減り体も冷え始めた。

『まあいいか。これも案外幸せの一つかも知れない』そんな事を思いながらうつらうつ

らしていると自分の名前を呼ぶ声がした。良平の声だった。懐(なつ)かしい声だった。

なぜか体中から嬉(うれ)しさが込み上げ、声の方へ一目散にかけて行った。

良平の姿が見えた。バロンを見つけた良平もかけ寄りバロンを抱き上げた。バロンの目

にはなぜか涙があふれていた。

『とうとう幸せってなんだか分からなかったけど、良平と一緒に居られればそれでいい』

そうつぶや呟いたバロンは、二度と幸せについて考えようとすることはなかった。


               
               
バロンの幸せ

高安義郎