予定していた出先回りを終えた誠は、公園脇のコンビニに車を止め、昼食用にサンドイッチ

とタバコを買った。公園には紫陽花の花房が揺れていた。

 ふと見ると公園の隅のベンチに、古めかしい着物姿の女性が一人座っているのが見えた。誠

は見るとはなしにその人を見ていた。女性はじっと一点を見つめて動かない。家に居られない

事情でもあるのだろうか。誠はそんな事を思った。しかし考えてみれば贅沢(ぜいたく)な時

間を彼女は送っているのだとも思った。それにひきかえ自分は、朝から夜十一時近くまであく

せく働き、のんびり出来る時間などない。最近は会社でも家の中でも禁煙ブームで、愛煙家の

誠にはゆっくり気を沈める場所も奪われていたのだ。幸い家庭の中はしっかり者の妻がてきぱ

きと家事をこなし、二人の子供もどうにか中学生になったが、マイホームを建てた時の借金の

為に頑張らねばならない。『俺、いつまでゆとりのない生活をしなけりゃいけないんだろ』

誠はしみじみ思った。

 誠の母親は誠が小学生の時に亡くなり、父は誠が就職した翌年に他界していた。兄弟のなか

った誠は独りぼっちの寂しさから早めに結婚したのだが、考えてみればいつも何かに追いかけ

られているような忙しい毎日だった。

 携帯電話が鳴った。出先の担当者からもう一つ相談したいことが出来たからと呼び出された。

誠は急いで車に戻った。

 用件は多少複雑で二時間ほど時間がかかったがどうにか片付き、気がつくとまたあのコンビ

ニ脇の公園に来ていた。昼食を取り損ねていた事を思い出し、先ほど買ったサンドイッチを手

に公園のベンチに座った。

「そうだ。ここはさっき女の人が座っていた所だ」

誠は口を動かしながら辺りを見回した。ブランコの向こう側にあるベンチに人が座っている。

誠はどきりとした。よく見るとそれは二時間前に見たあの女性だった。見ず知らずの人ではあ

るが、誠には何故かした慕わしいものを感じた。この気持ちは何なのだろう。そう思いながら

ブランコの支柱に視線をかく隠しながら女性を見つめた。

 すると女性の手元からふわりとハンカチらしい物の落ちるのが見えた。彼女は気づかないら

しく身動き一つしない。誠は残りのサンドイッチを頬張ると女性に近づき、

「これ、落ちましたよ」囁(ささや)くように言い拾いあげた。

「有り難うございます」女性はまだ虚(うつ)ろ目をしていた。

「どこか体の具合でも悪いんですか」

何故か丁寧(ていねい)な言葉で聞いた。女性はふうっとため息をつき、

「いえ、なんとも。でもどうして?」反対に質問された。

「長くここにおいでのようだから。もし具合でも悪いのかと思いまして。どうも余計なお節介

だったようで」その言葉に女性は急に明るい顔になり、

「お節介だなんて。実は私、昔大病をしましてね、子供が小さかった頃ですけど」

「そうですか。それで子供さんはもう大きいんですか」

「ええ、結婚して孫も二人いるんです。まだ顔を見てませんがね。でも息子夫婦の幸せだけが

私の願いなんです」

「息子さんはどこにお住まいですか」女性がにこりとほほえ微笑んだ。そして彼女が口にした

のは、何と現在誠の住む住所だったのだ。

「それって、私の家と同じですね」そう言ったとたん女性の姿はかき消え、梅雨晴れの解き放

った一陣の風が吹き抜けていった。そこには古びたベンチと、ベンチにおお覆いかぶ被さるよ

うに咲く紫陽花の花房が揺れていた。

『あの人は母さんの幻影だったのだろうか』誠はそう思った。

 そう言えば毎日の忙しさにかまけ、墓参りに行ったこともなかったし、子供達におばあさん

の話をしたこともほとんどない。だから孫の顔を知らないと言ったのだろうか。それにしても

なぜ幻覚を見たのだろう。誠は不思議に思った。学生時代心理学の教授から聞いた『幻覚は忙

殺(ぼうさつ)からの逃避である』そんな言葉を思い出した。

 余裕のない最近の荒れた心が、記憶の薄れた母親に救いを求めたのかも知れない。そう思う

と公園の片隅の紫陽花が、無性にした慕わしい物に思えるのだった。


                    
     
あじさい
紫陽花

高安義郎