百匹のオオムラサキ

高安義郎


       
                      


 陽介は親に叱咤激励され、好きでもない勉強を強いられる事に疑問を感じなが

らも、進学校を経て中堅大学をそこそこの成績で卒業した。やがて人のうらやむ

中流企業に就職し五年ほどが過ぎたが、社会人になればなったで営業成績を競わ

され、上司の顔色を伺いながら働くことに疑問を感じ、もっと自然に生きられな

いものかと考えるようになっていた。

 そんなある日、中学時代の仲間が飼育している国蝶のオオムラサキを見せて貰

い、陽介は自分も飼ってみたくなった。そこで食草のエノキを庭に移植しそれを

大きな防虫網で囲った。

「このビオトープで百匹のオオムラサキを育てるぞ」そう意気込み百個ほどの卵

が産み付けられたエノキの葉を譲り受けた。一週間ほどした七月の上旬、孵化し

た幼虫達は卵の殻を食べ、エノキの枝のあちこちに散らばって行った。

 更に一週間ほどすると幼虫は二齢になった。オオムラサキ特有の小さな角が出、

背中にも三対の突起が出た。見るとエノキには沢山のワタムシが真綿のように群

がり、木の根元からはアリが登っていた。これこそ自然そのもだと陽介は思った。

 幼虫が三齢になった頃アリの数が異様に増え、覗き込むと死んだ幼虫にアリが

群がっていた。アリが幼虫を食っていたのだ。陽介は思わずアリ共をつぶし、つ

いでにワタムシをはたき落として幼虫の数を数えた。すると百匹いるはずの幼虫

がどう数えても四十匹ほどしかいない。孵化できなかった者が一割としても半分

以上がアリに食われたことになる。自然の恐ろしさに陽介は身震いした。

 十月になり一センチほどの四齢幼虫になった。角の先がうっすら赤く、人は気

持ち悪がり近づかないが陽介には愛しささえ感じた。 やがて幼虫は黒ずみだし、

十月の末には枯れ葉と同じ色になってエノキの根元に降りはじめた。雨水につか

ったりアリに殺されたりせぬよう、枯れ葉にくるまっている幼虫を木箱に入れて

越冬させることにした。

 越冬期間は長かった。十月下旬から翌年の五月頃まで飲まず食わずで眠り続け

たのだ。越冬中に十匹ほどが干からびて死んだ。

 五月のある日、箱の中の幼虫は目を覚ました。目覚めた幼虫を芽吹いたばかり

のエノキに移してやるとその日から旺盛な食欲を見せ、一日に一ミリほどの速さ

で成長した。

 数日で五齢幼虫になった。木に登る力が弱い者や葉の無い所に上りつめ飢え死

にした者など十匹ほどが死んだ。五センチほどに成長した幼虫の元気な様子を見

ると、陽介は誇らしささえ感じた。

 ある日一羽の小鳥が網の隙間から入り込み幼虫をくわえて飛び去るのを見た。

急いで網を直し幼虫を数えると十五匹しかいない。網のお陰で全滅は免れたもの

の弱肉強食の世界を思い知らされた。更に六齢になれたのは十二匹だけであった。

 その頃エノキの葉はほとんど食べ尽くされており、毎日のように里山からエノ

キの葉を取ってきては与えた。十二匹は順に蛹(さなぎ)になり始めた。

「蛹になれば安心だ」そんな独り言を言いながら羽化を待った。

 一週間ほどして覗くと、何とアリが蛹をむさぼり食っていたのだ。体を食いち

ぎられた蛹が数匹落ちており、九個あった蛹はとうとう五個になっていた。

 ある日羽化が始まった。感動の瞬間だった。数日後オス四匹と更に一週間後メ

ス一匹が誕生した。だが傷があったのか一匹のオスは羽根が伸びきらず飛ぶこと

が出来なかった。自然界での生存率は一%だというが、ケージの中でさえ五%し

か生き延びられない過酷さを目の当たりにし、死と戦う場所が自然界であること

を陽介は思い知らされた気がした。同時に、過酷な自然を生き延びた蝶達にどん

な喜びがあるのだろうと、そんなことを考えた。

 一週間ほどして葉に卵が産み付けられていた。産卵後の蝶達は何故かゆったり

している様に見えた。世代を繋ぎ終え、生き物としての役目をまっとうした満足

感にも見えた。ふと、死が迫るわけでもない自分の生活に疑問を持ち、人生を厳

しく空しいものに思っていた自分が恥ずかしく思えた。 陽介は網を開き蝶を大

空に放ったのだった。

           



 

 
 寝たと思ったらもう朝だった。そんな日が何日か続いた。夢は見たのだ
ろうか。何年か前、痴呆症にかかったある人が、「最近私は夢を見ない」
そんなことを言っていたのを思い出した。おそらく見ていたであろう夢を
朝には忘れていたのだ。すると私も痴呆症になりかかっているのだろうか。
そんな不安がよぎり、夢を思い出すことにした。だがなかなか思い出せな
い。そこで私は床についてから、夢を覚えているようにしよう。忘れるな。
忘れるなよと自分に言い聞かせて寝ることにした。そのせいか、この数日
は夢を覚えていられるようになった。我ながら馬鹿げた暗示をかけたものだ。
 だが、この馬鹿げた思いつきの中でひょんな事を考えた。目をつぶって
からどのくらいしてから夢を見るのだろう。いや、それよりも自分が眠っ
たことを意識しているのだろうかと言うことだ。つらつら考えるに私は自
分が眠ったことを意識できない。そこでこんな事まで考えた。人は死ぬ時
を意識出来ないのだ。とは言え気がついたら死んでいたと言うことでもな
い。眠りに入ったことを知らないように死ぬ時はいつの間にか死んでいる
のだ。それは一切の夢を見ることのないままにである。つまり死ぬ瞬間は
眠りに落ちる瞬間と同じなのだ。最近私はそんなことを考えている。

                          (2022.3.3)